
「『トランジスタ・ラジオ』は不調だった当時の僕を救ってくれた曲です」と話す武田真治
2009年の突然の別れから17年。デビュー55周年の記念ドキュメンタリー映画が10月2日に公開されるなど、いまなお唯一無二の存在感を放つ「忌野清志郎」。彼と深い親交を結んだ著名人たちに、その素顔や言葉の美学を、思い出深い「清志郎の一曲」とともにひもといてもらった。
<武田真治の選んだ一曲>『トランジスタ・ラジオ』
1980年発売。RCサクセション時代の11枚めのシングル
「RCサクセション時代のライブでは、同じころに生まれた『雨あがりの夜空に』のほうが演奏されることが多く、清志郎さんには、よくできた曲なのに披露する機会が少なかったという思いがあったようです」
俳優・武田真治が選んだ清志郎さんの1曲は『トランジスタ・ラジオ』だった。
「初めて清志郎さんと会った当時の僕は、心身の不調で芸能関係の仕事からはほとんど離れていました。そんな僕に、“授業を抜け出して、日のあたる場所でラジオから知らないヒット曲を聴く” という歌の世界が重なったんです。
場所が変われば、理想も常識も変わる。いまいる場所になじめなくても、自分に合う生き方や価値観は、ほかにあるかもしれない。『自暴自棄にならなくていい。いろいろな生き方があっていい』と教えてくれた曲です。
清志郎さんの歌は、本当に多くの人を励ましてきた。救われたのは、僕だけではないと思います」
敬愛する清志郎さんとの出会いは、1999年にさかのぼる。俳優仲間で食事をしていたとき、竹中直人が武田に声をかけたことがきっかけだった。
「これから清志郎さんのところへ行こうよ。おもしろい人だよ、あの人は」
竹中は監督作『119』(1994年公開)で清志郎さんを音楽監督に迎えており、2人は旧知の仲だった。
「あのころ、僕は顎関節症を患い、精神的にあんまりいい状態じゃなかったんです。仕事もレギュラー番組の『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系)以外は、お断わりしていたほど。本音を言えば、そんな状態で清志郎さんに会うことに消極的だったんです。怖かったというか……。でも、流されるまま、ついていった感じでした」
訪れたのは、都内のマンションの一室を改装した清志郎さんのプライベートスタジオ「ロックン・ロール研究所」。ちゃんちゃんこ姿の清志郎さんが、武田たちを出迎えた。
「ご自分のスタジオなのに部屋の隅に正座して、アコースティックギターをつま弾いていて。僕も少し緊張していたんですが、いちばん緊張していたのは、むしろ清志郎さんだったのかもしれません。でも、自分以上に人見知りする人に会うと、かえってこちらの緊張は解けるものなんですよね」
会話をつないだのは、音楽だった。
「君、サックス吹くよね? 俺も最近ハマっててさ」
思い立ったように、清志郎さんがサックスを吹いてみせた。顎関節症で医者に止められ、1年以上もサックスから離れていた武田は、かえってその吹き方を冷静に見ることができたという。
「清志郎さんが、メタルマウスピースを噛みちぎるような勢いでくわえ、プラスチック製のリードでピー、ピーと音をひっくり返しながら息を吹く姿を見て、『こんな吹き方をしていたら顎を壊すかも』と、自分の奏法を振り返ることができたんです。まさに、人の振り見て我が振り直せ、ですね」
清志郎さんは「吹いてごらんよ」とサックスを武田に手渡すと、自らはエレキギターを手に取り、コードを弾き始めた。
「サックスを見るのも嫌でしたが、『こんな伝説的な人に誘われて、ここで音が出なかったら、もう終わりだ。この瞬間を逃してはいけない』と思いました。それで、心の底から『吹きたい』と願いながら息を吹き込むと、音が出たんです。
顎関節症で医者に止められたから吹けないと思い込んでいたけれど、それはサックスから逃げるための言い訳を探していただけなのかもしれない。そう気づいたとき、心のもやもやが、ひとつ晴れたような気がしました」
武田は、清志郎さんの左手が押さえるコードを目で追いながら音を合わせ、夢中でサックスを吹いた。2人の即興演奏は、10分ほど続いた。演奏を終えると、清志郎さんはうれしそうにこう言ったという。
「なかなかやるねえ。今度さ、デモテープを作るとき、手伝ってよ」
■清志郎さんからの “クリスマスプレゼント”
「何してんの? 暇だったら、今からサックスを吹きに来てくれない?」
1999年12月24日の午前0時ごろ。武田のもとに突然かかってきた電話の主は、清志郎さんだった。
「クリスマスイブでした。清志郎さんは意識していなかったかもしれませんけどね。これが22日や23日だったら、『明日でもいいですか?』と答えていたかもしれない。でも、24日ならこれを自分へのクリスマスプレゼントにして、特別な日にしようと思い、行くことにしたんです」
深夜1時すぎ、サックスを抱えてスタジオに入ると、清志郎さんとバンドマスターの藤井裕さん(2014年逝去)がいた。清志郎さんが叩いたドラムと藤井さんが弾いたベースの音源に合わせて、清志郎さんがギターとボーカルをダビングしていた。そこへ武田がサックスを重ね、さまざまなパターンを試した。
「うれしかったですね。自分のサックスがまだ誰かの役に立ち、また居場所を得られたような気がしました」
デモテープ作りで感触を得た清志郎さんは、武田にこう声をかけた。
「本レコーディングのときはスタジオミュージシャンにお願いしようと思っていたけど、本番でも吹いてよ」
これを機に、武田はバンド「ラフィータフィー」の正式なメンバーとなり、清志郎さんらと「マジカデ・ミル・スター・ツアー2000」で全国をめぐった。
「あの世代の人たちは、プロンプターに頼らないんですよね。清志郎さんも、足元に視線を落としたり、歌詞カードを見たりすることなく、すべて覚えて歌っていました。だから、歌がまっすぐ客席へ飛んでくる。お客さんとの距離も近く、みんなで一つの空間をつくるというより、『観客対忌野清志郎』とでもいうような、互いのエネルギーがぶつかり合うライブでした」
ライブを終えると、メンバー全員が清志郎さんの部屋に集まり、酒を酌み交わしながら、その日の映像を最初から見返したという。
「毎晩そうでしたね。清志郎さんにとって、自分のライブ映像を見る時間は、至福のひとときだったのだと思います。エンターテイナーとして研究するというより、一つの娯楽として楽しんでいるようで、いつもニコニコしながら見ていました。反省会という雰囲気ではありませんでした」
酒を飲み、タバコを吸いながら、自分たちのライブ映像を見る。一人、また一人と眠りに落ちていくなか、清志郎さんはビニール袋を広げ、部屋のゴミを拾い始める。そのガサガサという音で目を覚ましたメンバーは、それぞれ自分の部屋へ戻っていった。そんな夜が、ツアー中は毎日のように続いた。
「最初のツアー後半、清志郎さんは折りたたみ自転車をバスに積み、会場の10キロほど手前で降りて走っていました。体が温まり、胸郭がほぐれるのか、サウンドチェックの1曲目から驚くほど声が出ているんです。
それを見て、ベースの藤井さんや僕も自分専用の自転車を作って、走るようになりました。やがてバンド全体が、リハーサルの1曲目から全開で演奏できるようになっていきました。
夜の集まりは次第になくなり、2度目のツアーのころには、『明日は早起きして、ライブ前にみんなで20キロ走ろう』という雰囲気になっていました」
自信を失い、仕事から距離を置いていた武田にとって、清志郎さんの趣味だった自転車で一緒に各地を走り、サックスを吹く日々は、「最高のリハビリ」になったという。
「バンドなのに、自転車が必須科目のようになっていました。あの自転車体験がなければ、その後の『みんなで筋肉体操』も、いまの健康な体もなかったと思います。清志郎さんに出会っていなければ、サックスもやめていたかもしれません」
2009年5月9日、青山葬儀所で営まれた「忌野清志郎 青山ロックン・ロール・ショー」で、武田はバンド「NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS」とともに、清志郎さんの生前の歌声に合わせて『雨あがりの夜空に』を演奏した。
「清志郎さんの過去のライブ音源に合わせて演奏したのですが、みんなの思い入れが強すぎて、次第に音源と演奏がずれてしまって。音響設備も十分ではなく、決してうまくいった演奏ではありませんでした。
でも、悔やむというより、『失敗しちゃったね』とでもいうように、みんなで顔を見合わせ、ニヤニヤしながら演奏した記憶があります。あのとき、うまく演奏できず落第したことで、『清志郎さんの楽曲からは一生卒業できない、しない』と心の中で思いました」
たけだしんじ
1972年12月18日生まれ 北海道出身 1990年、俳優デビュー。サックス奏者としても活躍し、忌野清志郎さんのバンド「ラフィータフィー」に参加。2027年1月、清志郎さんの楽曲で構成するミュージカル『JUMP〜ヨルがオちてくるそのマエに〜』に出演予定
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