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滅亡の危機に瀕する百貨店…デヴィ夫人や泉麻人氏らに聞く再生のカギ「全フロアをデパ地下にしちゃえばいい」
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2022.04.08 06:00 最終更新日:2022.04.08 06:00
百貨店はただの買い物場所ではなかった。一緒に年を重ねてきた特別な存在が、幕を下ろす……。そごう・西武は2006年の28店舗から10店舗まで減少し、百貨店業界全体の存続が危ぶまれている。元経営者や伝説的アートディレクター、そして百貨店を愛する著名人らが、再生の道を示す!
「定時制高校に通いながら生保会社に勤めていたころ、初めてのお給料で、まだ日本では珍しかったレインコートを銀座の三越で買ったことを覚えています。百貨店にはバラエティに富んだものがたくさんあって、夢が詰まっていて。今でも百貨店で買い物をするとき、私はウキウキします」
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そう語るのは、世界中の百貨店を利用してきたデヴィ・スカルノ夫人だ。
「ただ、私は洋服の生地や色味や仕立ては、手に取って見なければわからないのですけれど、今はネット通販でも、いいものが早く安心して買えるのでしょう? これでは百貨店はお手上げでしょうね」
セブン&アイHDが、傘下のそごうと西武を売却することになった。デヴィ夫人がパリに暮らしていた1970年代、親密に交際したのが、西武百貨店パリ駐在部長だった堤邦子氏。当時の西武百貨店の総帥・清二氏の妹だ。
「昔はね、西武がすべてにおいて断トツでした。邦子さんは、東京プリンスホテルの地下にあった西武PISAで、当時は日本にブティックがなかったエルメスやルイ・ヴィトンなどを紹介していました。島津貴子さまがPISAに就職したときは、『元内親王が民間企業に』と話題になったほどです」
その西武百貨店で、コピーライターの糸井重里氏とタッグを組み、「不思議、大好き。」(1981年)や「おいしい生活」(1982年)といった歴史に残る広告を作ったのがアートディレクターの浅葉克己氏(82)だ。
「三越や高島屋など伝統ある百貨店に比べれば、西武は後発でしたが前衛的でしたね。堤さんは詩人・作家の辻井喬でもあり、毎月会って相談しては刺激を受けていました。ともかく “新しい物好き” で、自分の発想の先をいった提案でないと怒るんです」
ウディ・アレンを起用した「おいしい生活」は、ニューヨークまで飛んで直談判して口説き落としたという。
「私は高校を卒業した後、横浜の松喜屋百貨店で、店舗のディスプレイや車内吊りのポスター制作などをやっていました。その後に入社したライトパブリシティでは、田中一光さんや土屋耕一さんといった先輩が、西武や伊勢丹の宣伝を一手に引き受けていましてね」
今、百貨店の宣伝には、そのころのような熱気がない。
「若者の百貨店離れがいわれているなら、へんに媚びずに、しっかりした文化施設を設ければいいと思います。世界でもユニークなカルチャーを発信してきた日本の百貨店ですから、最上階に常設のデザインミュージアムを造れば、より魅力的な場所になるんじゃないかな」
西武池袋線の東長崎駅近くで少年時代を過ごしたコラムニストの泉麻人氏(65)は、西武百貨店には格別の思いを持っている。
「池袋には三越もあったけど、子供にはトレンドに敏感な西武のほうが楽しかったですね。当時は6階が玩具売場で、7階が大食堂で……屋上は半分ヘリポートになっていて、小林旭主演の映画『都会の空の用心棒』でも、遊覧飛行のシーンがありました。
また、『ナポリ』という高級メーカーのアイススタンドが入っていて、当時から抹茶とかエッグカスタードとか、しゃれた味がいくつかあったんですよ」
そんな泉氏だが、最近は洋服はネットか駅ビルで買うようになったという。
「この10年は、どの百貨店も上の階には行っていないなぁ。でもデパ地下には、地方でも、土地の味や名物を求めて必ず寄りますね。いっそ、全フロアを “デパ地下” にしちゃえばいいけど、さすがにそれは無謀か(笑)。
西武園ゆうえんちがそうしたように、建物全体を昭和レトロなテーマパーク風にするとか、独自のコンセプトを立てないと、どの百貨店もこの先ますます厳しくなりそうですね」
ローソンやニトリの役員を務め、国内外の流通を熟知するNice Ezeの松浦学社長は、こう分析する。
「百貨店の市場規模は、コンビニやドラッグストア、ホームセンターより小さいものです。それら他業態も、食品などラインを拡げ、PBを作り、さらに出店場所や形態も変更して、なんとか売り上げをキープしています」
業態の壁は壊れ “百貨” を掲げる必要性がなくなったのだ。
「ニトリやユニクロなど、消費者が安くて満足できる商品が市場に出揃ってしまったんですね。郊外のモールやECが発展し、どこでも手に入るものを、わざわざ都心の百貨店に出向いて買う動機がなくなりました。
デパ地下は、手軽に驚きや贅沢気分が味わえ、街歩きの代替にもなりえます。しかし究極的には、渋谷の再開発のように、街の総合力が高まる場所に店舗を絞り、複合型商業施設に変えていくしかないでしょう」
三越伊勢丹HDの社長を務めたある人物は、黄金期の西武に対し、「追いつけ追い越せ」という思いがあったと語る。
「西武さんはモノではなくコト、文化を売っていました。渋谷ではPARCOやLOFTなどを含めて、街自体を創造していました。その方法論は、今でも通用するはずです」
今、各百貨店が注力するのは、“街” の店舗ではなく、ネット通販だ。
「今は各社とも “eコマースを柱にする” といいますが、それは、インフラとしてあって当たり前のものです。百貨店は、リアルな店舗でデジタルのよさを駆使せねば本末転倒です。
たとえば、AIを活用して生産・流通を最適化したり、店舗以外への顧客接点を拡大するためにデジタルを活用すれば、リアル店舗の高度化や効率化に繋がります」
百貨店は不動産価値を生かすべきだが、テナント管理業ではない、と元社長は語る。
「しかし今の百貨店は、テナント比率を上げることにばかり専念し、店舗運営や商品政策に携わる優秀な従業員を何百人も削減してしまいました」
百貨店は、強みとしてきた商品企画力や販売スキルを自ら弱めつつあるのだ。
人を大切にするべきだという思いは、カレーハウスCoCo壱番屋を展開する壱番屋創業者の宗次徳二氏(73)も同じだ。
「私自身はファッションにまるで興味がなく、ネクタイは500円のものと決めており、背広は量販店の吊るしです。ですが、お祝いを差し上げるときは、名古屋・栄の松坂屋などを利用します。結婚祝いに、気に入っているヨーロッパ製のカレー皿があるんですよ」
ココイチのカレーは、値引きしないことで知られる。
「今は “値上げラッシュ” だといわれていますが、それでも『価格据え置き』を宣言する量販店があって、生産者さんや従業員のことを思うと、いたたまれないです。百貨店は値引きをほぼせず、接客を重視し、付加価値のサービスに重きを置いている。業態は違いますが、壱番屋と近いものを感じます」
壱番屋の経営から退いた宗次氏は、クラシック専門の「宗次ホール」を開き、岐阜の郊外から栄の中心部に生活の拠点を移した。
「壱番屋の経営から離れたとき、妻から『デパートのある街に住みたい』と言われたんです。妻の唯一の望みで『これでもう欲しいものはないわ』と言われました(笑)」
宗次ホールにもコロナ禍が直撃し、コンサートを予定どおり開けない状況になった。
「百貨店も苦しい状況にあるのは間違いないでしょう。ただ、街から百貨店の看板が消えるということは、その地域に住む人にとっては、耐えがたいことなんです。
百貨店の上層部の方は、“時代が変わった” と言いたくなるのでしょうが、現場には必ずヒントがあります。それを見つけてほしいですね」