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日本のクラシック音楽は「幸田延」が作った…瀧廉太郎や山田耕筰を育てた「楽壇の母」

ライフ・マネー 投稿日:2022.10.25 16:00FLASH編集部

日本のクラシック音楽は「幸田延」が作った…瀧廉太郎や山田耕筰を育てた「楽壇の母」

 

 1871年(明治4年)、横浜港から64名の団体が蒸気船に乗ろうとしていた。行き先はサンフランシスコ。

 

 岩倉具視を特命全権大使とするいわゆる岩倉使節団である。スタッフ含め総勢107名。副士官として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった政府首脳や留学生で占められていたが、その中には、5人の少女(留学生)もいた。

 

 

 うち2人は早々と帰国したが、山川捨松(1860年、会津生まれ)、永井繁子(1861年、東京生まれ)、津田梅子(1864年、東京生まれ)の3人は約10年アメリカにとどまり、本格的なピアノの教育を受けた。そして、1881年(明治14年)から翌年にかけて帰国の途につく。

 

 1883年(明治16年)、奇しくも文明開化を象徴する施設が東京に建てられた。鹿鳴館である――。

 

 外国人接待目的で麹町内幸区に建てられた西洋風煉瓦造りのこの館では、2階の舞踏室で毎晩のように夜会が開かれていた。まだまだ西洋楽器がめずらしかった明治初期に、ここだけはピアノの音や小規模ながらオーケストラの響きを聴くことができたのだ。

 

 流暢な英語を操り、ピアノの演奏もでき、西洋風のマナーも身につけたアメリカ帰りの山川捨松、津田梅子、永井繁子の3人は鹿鳴館の人気者、アイコンになった。時代の最先端をゆく憧れの的だったわけだ。

 

 そんな3人だが、それぞれが違う道を歩み始める。

 

 山川捨松は、のちに陸軍元帥となる大山巌と結婚した。今でいうセレブ婚といったところか。津田梅子は生涯独身を通すが、女子教育の重要さを説き、女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設した。彼女こそ、新五千円札に描かれる女性である。そう、新しい時代の職業婦人像として注目を浴びたその人だ。

 

 永井繁子はヴァッサー大学で3年間音楽を学んだ本格派である。帰国後、日本人としては初のピアノ独奏会を開き、のちに海軍大将となる瓜生外吉と結婚するが、音楽取調掛(1887年に東京音楽学校になる)の助教となってピアノ演奏や唱歌の楽曲分析を行った。ちなみに繁子の実兄・益田孝は三井物産の社長になった人物である。

 

 この繁子に師事したのが、幸田延(1870年、東京生まれ)である。この有名な作家(幸田露伴)の妹は、東京女子高等師範学校附属小学校の頃から音楽取調掛の外国人教師だったルーサー・ホワイティング・メーソン(1818年、アメリカ・メイン州生まれ)に才能を見込まれ、個人レッスンを受けていた。

 

 12歳で音楽取調掛に進み、繁子に師事。そして、1889年(明治22年)、日本人初の音楽留学生としてボストンのニューイングランド音楽院でヴァイオリンとピアノを学んだ。

 

 1年後には欧州に飛び、ウィーン楽友協会音楽院で5年間学んだ。ここではヴァイオリンやピアノのほか、和声から作曲法、対位法、声楽まで幅広く学んだ。おそらくは日本人ではじめてのオールラウンドな音楽家・教育者だ。

 

「では最初のピアニストは誰だろう、と、『文明開化』の疾風怒濤の中を遡ってみると、幸田延という女性の姿が浮かび上ってくる。ただ単に最初のピアニストというだけでは充分ではない。彼女はまた日本最初のヴァイオリニストでもあり、最初の作曲家でもあったが、それよりも何よりもそこには、巨大な西欧文明、そしてその精華である西洋クラシック音楽という未知の世界にまっさきに踏み込んでいった探検家の趣き、とでもいったものがあるのだ」

 

 中村紘子(1944年、山梨生まれ)が著書『ピアニストという蛮族がいる』の中でそう語る。

 

 日清戦争勝利に沸く1895年(明治28年)、ウィーンから帰国した幸田延は、東京音楽学校の助教授に就任した。国民に漂う高揚感の中、西洋文明を象徴するスーパーウーマンとしてもてはやされたのである。

 

 翌1896年(明治29年)に開かれた「帰朝記念演奏会」で幸田延は、メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》の第1楽章を独奏し、シューベルトとブラームスの歌曲を独唱。それからハイドンの弦楽四重奏曲でヴァイオリンを弾き、クラリネットのピアノ伴奏をした。

 

 東京音楽学校では、ピアノ、ヴァイオリン、作曲、和声学、声楽の各分野を担当した。

 

 その一方で、彼女が纏った西洋仕込みの身のこなし、いわゆる「レディファーストの文化」が、「男尊女卑の空気」色濃く残る明治の日本で「生意気だ」「尊大だ」と攻撃の的になったという事実もある。

 

 平成から令和になった昨今、何かと生きづらさを嘆く風潮があるが、明治の時代も新しいことを始めようとする人には生きづらい空気が漂っていた。

 

 1899年(明治32年)に東京音楽学校の教授になった彼女は、それ以降、文字通り「楽壇の母」として多くの音楽家を育てた。作曲家の瀧廉太郎(1879年、東京生まれ)や山田耕筰、声楽家の三浦環(1884年、東京生まれ)といった日本の音楽界の黎明期を担う人材である。

 

 このように、日本のクラシック音楽界は幸田延から始まったといっていい。

 

 

 以上、本間ひろむ氏の新刊『日本のピアニスト~その軌跡と現在地』(光文社新書)をもとに再構成しました。中村紘子、フジコ・ヘミングから舘野泉、辻井伸行まで――。ピアニストの軌跡をたどりながら、新しいピアニスト像まで考察します。

 

●『日本のピアニスト』詳細はこちら

( SmartFLASH )

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