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寂しがり屋で人に気を遣ってばかり…「不安型愛着スタイル」萩本欽一の場合

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2022.11.23 11:00 最終更新日:2022.11.23 11:00

寂しがり屋で人に気を遣ってばかり…「不安型愛着スタイル」萩本欽一の場合

 

「人に気を遣いすぎて、疲れてしまう」「自分のことが嫌われていないか、過度に気にしてしまう」「何事にも過敏で傷つきやすい」といったことで苦しんでいる方はとても多い。

 

 そういう傾向を持つ方は、自分が一生懸命人に気を遣い、サービスする心理の根底で、自分のことを実際よりも低く、つまらない存在と見なしていて、自己評価や自己肯定感が低いこともしばしばだ。

 

 

 そのため、人から認められているとか、受け入れられているとか、愛されているということを確かめないと、自分の存在価値を保てない。ちょっとでも悪い反応が返ってくると、自分の価値がなくなったように感じてしまい、落ち込んだり不安に駆られたりしやすい。

 

 こうしたタイプの人の根底にしばしば認められるのが、「不安型愛着スタイル」である。

 

 不安型愛着スタイルの人は、寂しがり屋で、取り残されることを恐れている。人に気を遣って合わせてしまうのも、機嫌を損じないように顔色をうかがい、ついサービスしてしまうのも、相手に悪く思われ、見捨てられることを恐れているからだ。自分の力だけでは頼りにならないので、誰かに頼りたいと思ってしまうのだ。

 

 孤独や孤立をそこまで恐れる背景には、何らかの見捨てられた体験や否定され続けた体験があって、その出来事から何年も何十年も経っても、その人を支配してしまっている。見捨てられまいと、あなたの心遣いや愛に値しない人にまで、つい機嫌を取り、しがみついてしまう。

 

 ただ、顔色に敏感で、相手の反応を過剰なまでに気にする不安型愛着スタイルの特性は、マイナス点ばかりではない。幼い頃から周囲の大人の顔色を見て育ち、機嫌が悪くならないか、絶えず気にしながら育つ中で、相手の気持ちを素早く読み取り、機嫌を損なわないためにどうすればよいかという気配りの能力を培ってきているともいえる。

 

 自分のことを後回しにしても、相手のことを優先しようとする不安型愛着スタイルの行動パターンは、相手を居心地よく感じさせ、好印象を抱かせることが多い。親しみや信頼を生み、ときには感動させる。

 

 接客やサービス業に適性がある人も多く、医療や福祉、介護、心理などのパラメディカル、芸能分野、営業や販売、コンサルティングといった領域でも、そうした特性を活かして活躍している人も多い。

 

 いわゆる人気商売に向いているのだ。サービス業では、人に好かれ、頼られなければ、繁盛しないのだが、いっしょにいて心地がよく、常に相手を優先する態度に、お客は惹かれるのだ。

 

■芸能人にも多い不安型愛着スタイル/欽ちゃんの場合

 

 お笑い芸人の枠を超えタレントや名司会者として長くお茶の間の人気者だった、欽ちゃんこと萩本欽一氏も、人の顔色を読み取り、どんな不機嫌な人も笑わせてしまう、当意即妙の才を遺憾なく発揮したが、そうした才能が育まれるのには、彼の育った境遇も大いに関わっていただろう。

 

 欽ちゃんの自伝『なんでそーなるの!』によると、欽ちゃんは6人きょうだいの5番目、三男として生まれた。一番上の兄とは14歳離れていた。両親ともに高松(香川県)の出身だったが、父親と母親の育った境遇は、だいぶ異なっていたようだ。

 

 父親は小学校を終えると、すぐに丁稚奉公に出て、東京でカメラ関係の仕事をしていたのに対して、母親はお嬢さん育ちで、当時としては珍しい、高等女学校を卒業した才媛で、四国に4人しかいないタイピストの1人だったという。

 

 父親は、カメラの事業で成功して、お見合いをするために高松まで帰ってきたが、お見合い相手の家が留守で、困っているとき、たまたまその家の隣に住んでいた母親が親切に声をかけたのが縁だったという。父親は、見合い相手よりも母親の方を気に入り、何度も通い詰めて、口説き落としたのだという。

 

 丁稚奉公から叩き上げて、事業を成功させるだけのことはあり、父親には人をその気にさせる才覚と情熱が備わっていたのだろう。母親との結婚後、父親のカメラ事業はさらに発展することになる。最盛期には7カ所の店舗をかまえ、そのうちの1店は銀座のど真ん中にあった。

 

 だが、父親の積極経営は裏目に出ることになる。それが決定的となるのは、小型一眼レフカメラ、いわゆるポケットカメラを開発し、大々的に売り出したものの、まったくヒットしなかったときだった。欽ちゃん自身が述べているように、アイデアは優れていたが、先を行きすぎていた。日本でポケットカメラが流行るのは、それから半世紀も経ってからのことである。

 

 父親の事業は一気に傾き、資金繰りにも窮することとなる。欽ちゃんが生まれたのは、父親の事業が最盛期へと向かう頃で、埼玉の浦和に大きな家を建て、羽振りのよい時期であった。この頃の欽ちゃんは何不自由のないお坊ちゃまとして育ったかにも思えるが、この一家は、すっかり幸せだったとはいえない、ある事情を抱えていた。

 

 欽ちゃんは、その事情を、幼い頃うちの父親は土曜日だけしか家に帰って来なかったと述懐する。よその父親が毎日家に帰ってくることを知って、母親にわけをたずねると、お父さんは特別に仕事に打ち込んでいるからで、毎日家に帰ってくるような男は、大して仕事をしていないのだと説明され、うちの父親はすごいんだと思ったという。

 

 実のところは、父親には別に女性がいて、普段はその女と暮らしていたのである。大きくなると、自然にそうした事情もわかってくることになるが、母親はまだ小さい息子を傷つけないように、そんなふうに説明したのである。そこには、女としてのプライドもあっただろう。

 

 欽ちゃんが母親のことを尊敬し、とても大切に思っていることは、さまざまなエピソードに滲み出ているのだが、それは、母親が抱えていた不幸を、息子である欽ちゃんが気遣い続けてきた結果であるようにも思える。

 

 欽ちゃんが芸能の道に入ることを決意したのにも、母親の悲しい姿が関わっていたという。父親の商売は行き詰まり、店をすっかり手放しても、払いきれないほどの借金だけが残ってしまう。

 

 借金の取り立てを受け、母親が土下座をして、返済を待ってくれるように懇願している姿を見て、欽ちゃんは「お金もちになりたい!」と強く思ったのである。もともと学業優秀だった欽ちゃんだが、家庭の事情も影響して成績は下降、お金持ちになれそうな方法が、芸能人になることだったのだ。

 

 父親の事業が傾き、浦和の豪邸から、もともと暮らしていた南稲荷町(現・東京都台東区東上野)の小さな家に戻ると、周囲の環境もがらりと変わった。ガキ大将にいじめられないために、欽ちゃんは、相手を「よいしょ」して、自分より強い者に取り入る技を磨いていく。

 

 おそらく欽ちゃんは、すでに相手の顔色や機嫌をうかがう術を、両親や年上のきょうだいたちとの関係で身につけていたと思われるが、新たな境遇で生き延びるために、さらにそれを熟達させたのだろう。

 

 こうした能力は、不安型愛着スタイルの人が、サバイバルのためしばしば身につけるものだが、それはこのタイプの人が生きていく上での強みともなる。観客や出演者の心の機微を読み取って、笑いを取ったり、心をつかんだりできるのも、逆境の中で身につけたスキルがあったればこそだといえる。

 

 

 以上、岡田尊司氏の新刊『不安型愛着スタイル~他人の顔色に支配される人々』(光文社新書)をもとに再構成しました。一般にもその存在と影響が広く認識されるようになった「愛着障害」。そのなかでも、身近な問題となる、比較的軽度な愛着障害である「不安型愛着スタイル」について考えます。

 

●『不安型愛着スタイル』詳細はこちら

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