銀座一丁目に1930年代の初めに造られた2棟の古いビルがある。かつては銀座アパートメントと呼ばれた。昭和のモダンを色濃く残す手動式エレベーターや階段、手すりなどを見に来る観光客も多い。
その1棟の2階に柴田稚子さん(63)が経営する貸しギャラリーはある。柴田さんはギャラリーを経営するために、17年間の海外生活に終止符を打って帰国した。57歳のときだ。
「40歳のときに主人の転勤で香港へ行きました。主人はモスクワ生まれのロシア人で、後にアメリカ国籍を取得しました。中国哲学を研究する学者でしたが、28歳のときにアメリカに亡命してMBA(経営学修士)の資格を取り、来日したときに知り合いました。ニューヨークに渡ったときは100ドル札一枚を握った移民でしたが、バブル期の日本で転職を繰り返し、香港へはアメリカの投資銀行の支店長として赴任しました。子供がまだ2歳で、私たちは子育ての日々を送りました」
柴田さん自身は東京、四谷の生まれ。父親は弁護士で何不自由ない環境で育った。大学ではフランス文学を学び、卒業後は超高層の父と呼ばれた建築家、武藤清の秘書を務め、その後、コンコルドなどを製造するフランスの飛行機メーカーの日本支社で働いた。海外生活は香港の後、アメリカ西海岸のバークレーで16年間続いた。
47歳のとき、人生観を変える出来事に襲われた。2001年のアメリカ同時多発テロ事件で友人を亡くしたのである。さらに2002年に親友を、2006年のレバノン侵攻では21歳の甥を亡くした。皆、やりたいことがまだまだあったはずだ。これからはいつ死が訪れるかわからない。人として生まれたなら、今を一生懸命生きなければいけないと、そのとき、自分に言い聞かせた。
「日本に一時帰国したときに話があるからと言われ、年上の友人が経営している銀座の画廊に行きました。彼女は88歳。夢は稚子と一緒にファインアートの画廊をやることだと言われました。肺にガンが見つかっていましたが、年を取ってからのガンは進行も遅く大丈夫だから、私が帰国したときには一緒に画廊をやりましょうと言って別れた翌年、彼女は亡くなりました。その2年後に、会ったこともない彼女の息子から突然のメールで経営を頼まれました。経営がうまくいかないので、母が信頼していた人に経営を託したいとのことでした」
やりたいことがあったら、躊躇せずに一歩を踏み出せ。右の道でも左の道でもとにかく楽しそうな方向へ進んで、失敗したら違うほうへ行けばいい。夫の諒解も得て、2011年、57歳のときに柴田さんはトランク2個に身の回りのものを詰めて帰国した。以来6年間、夫とは別居したまま一人で画廊の経営を続けている。
アメリカにいたため父親の死に目に会えなかった。「せめて母のときは……」との思いも帰国理由のひとつだった。母親は美術、音楽、映画、芝居など芸術全般を愛し、小さなころから美術館にもよく連れていかれた。ギャラリーの経営を決めたのにも母親の影響がどこかにあった。母親は現在92歳、健在である。
「貸し画廊なので、有名な作家というより、無名の若い方や、若いころの夢が忘れられないという方、美大を出たばかりの新進気鋭の作家、一度は銀座の画廊で個展を開きたいという作家、たくさんの絵を残した母の供養のために、母のお友達を招いて思い出話をしたいという方、 その理由はさまざまです。
皆さん、一週間だけこの画廊で自分の世界を自ら演出し、夢を現実に変えているのです。そのお手伝いができることは幸せなことです。うちで展覧した作家たちが日展に入選したり、大きな公募展で入賞したり、そういうことが嬉しいですし、一昨年、このビル『ニューヨーク・タイムズ』に載ってからは外国人観光客が多くなり、通りすがりに作品を買ってくださるのも嬉しい」
柴田さんの、今を懸命に生きる思いは半端ではない。興味を持ったらなんでもやってみる。居酒屋で見たポスターがきっかけで、2016年からは東京オリンピックの金メダリストが開いたボクシングジムに通っている。右ストレートが自慢だ。
また、母親を連れて東京マラソンを見に行った先で、たまたま演奏していた和太鼓グループの年齢、性別、障害の有無などを問わない姿勢に感心し、その場で弟子入りをした。子供たちにもかなわない腕前だが、毎年夏には櫓の上で盆踊りの太鼓を叩くのを楽しみにしている。
どこででも、どんなことでも起こりうるのが人間の世界。だから、その覚悟さえできていたらどこに住んでいても、何をしててもいいのではないか。
「私にとっていちばん大切なものは自由です」と柴田さんは言い切る。女フーテンの寅さんを自認し、違いは「トランクの数だけ」と笑う柴田さん。
画廊をあと十数年続けられたら、75歳からはフランスでの生活を夢見ている。もちろん持っていくのはトランク2個だけだ。
(週刊FLASH 2017年7月25日号)