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日本のパンクロック「ブルーハーツ」がすべてを変えて「ビートパンク」がなにもかも押し流した

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.11.25 16:00 最終更新日:2023.11.25 16:00

日本のパンクロック「ブルーハーツ」がすべてを変えて「ビートパンク」がなにもかも押し流した

ブルーハーツのコンサート(1993年)

 

 1980年代末の当時、たとえば渋谷センター街をものの数分も歩けば、楽器を肩に担いだバンド・キッズか、あるいは「ラバーソール」の靴を履いた男女の何人かを目撃することができる、と言われていた(事実そのとおりだった)。

 

「インディーズ」バンドやその追っかけファンが愛用した厚底のゴム底靴――日本でのみ「ラバーソール」と通称される――の出どころは、もちろん直近ではヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンの一連の「仕掛け」からだった。「テディ・ボーイズのスタイルをパンクに取り込む」という例のやつだ。

 

 

 これによって、それまではテッズの愛用品だったジョージ・コックス社製のゴム底シューズ「ブローセル・クリーパーズ」が、ピストルズ・スタイルの一部となった。そこから流れに流れて、コピー商品が山のように作られて、「イカ天」バンドたちも履くようになった。

 

 日本のパンク・ロックがこうなった理由を、世相以外に挙げるとしたら、ひとえにそれはザ・ブルーハーツのせいだった。

 

 パンク・ロックが、まるで日本の小劇団か日本の学校の文化祭みたいな「自己参加型」の発表会的なものへと大きく変質していった契機は「インディーズ」ブームからだったのだが、少なくとも途中からは、まぎれもなく「ブルーハーツの成功を模倣しようとした」という内容の、一大ブームへと変質したからだ。

 

 もちろん模倣者のうちに成功例はほとんどなかったし、あったとしても、ブルーハーツとは比ぶべくもなかったのだが。

 

 1985年に結成、1987年にメジャー・デビューしたブルーハーツは、ヒット・シングルをいくつも出した。この成功の大きさは、1990年代以降のアメリカにおけるグリーン・デイやオフスプリングらのブレイクを「先取りした」とすら言えるものだった、かもしれない。

 

 1980年代の後半当時、ここまで巨大なポピュラリティを獲得し得たパンク・ロック発祥のポップ・ソングは、世界的に見てもきわめて稀な存在だった。

 

 なにしろブルーハーツの音楽は「標準的な日本のロック・ファン」以外の層にも、きわめて幅広く受けたのだ。「人にやさしく」「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」などは、小学生までもが歌詞を誦んじたし、メンバーの似姿は『少年ジャンプ』の人気連載漫画のキャラクターにまでなった。「やさしさパンク」とも呼ばれた。

 

 そして代表曲筆頭の「リンダリンダ」は、地方都市の女子高生がバンドを組むというストーリーの映画『リンダ リンダ リンダ』(2005年)を生み、そこからインスピレーションを得た米ロサンゼルスの少女4人組バンド、ザ・リンダ・リンダズ(2018年結成)にまでつながっていった(彼女たちも、もちろんブルーハーツの「リンダリンダ」をカヴァーして、日本語詞のまま歌った)。

 

 ここまでのポピュラリティを得るに至ったブルーハーツの音楽性は、当時、おもに巷間「ビートパンク」などと呼ばれていた。

 

■ビートパンクとはなにか

 

 ビートパンクとは、もちろん和製英語ですらない、カタカナ語だ(なぜならばBeat Punkと書いてみても、英語としては一切なんの意味も成さないからだ)。この語の出どころというと、「めんたいロック」と総称された、ルースターズ、ザ・モッズ、ザ・ロッカーズ、シーナ&ザ・ロケッツなど福岡をベースとしていた「ビート・バンド」の存在からの転用だと見なされている。

 

 ブルーハーツの「ヒット曲」に特有のスタイルをある種の「ジャンル」とみなした言葉が「ビートパンク」で、具体的には、以下の要素を兼ね備えた「わかりやすい」ポップ・パンクを指す。

 

(1)ジ・アンダートーンズやバズコックスが得意としたような、キャッチーなポップ・パンク・ソングを、おもにミディアム・テンポで展開した上に、
(2)くっきりと聞き取りやすく「まるで童謡のように平易な日本語の歌詞」が乗る

 

 ――というのが、それだ。

 

 とくに後者、七五調を基本とする日本語詞の一音節に音符ひとつを当て込む、というスタイルは、1970年代初頭、はっぴいえんど時代の松本隆が発明した「黄金律」に立脚している(七と五を、それぞれ「八」になるように長音符や休符などと組み合わせ、8ビートに「合致させる」という手法だ)。

 

 はっぴいえんどのこの達成は、その後の日本語ロックの基礎となった。RCサクセションの忌野清志郎も、この達成の上に自らの世界を構築した。そして、ちょうどこの忌野のスタイルによってバイパスされたような形で、「黄金律」をパンク・ロック構造のなかへと引き込んだのが、ブルーハーツのソングライターである、甲本ヒロトと真島昌利の2人だった。

 

 ここに名を挙げた四者は、いずれ劣らぬ、戦後の日本語ポピュラー・ソング史に巨大な足跡を残した天才たちだった、と断ずることができる。つまり1980年代当時は、その「天才の最新形態」がまさに最前線で、大車輪で稼働しているタイミングだった、というわけだ。

 

■子供騙しの市場

 

 ゆえに誰もかれもが「ブルーハーツみたいになりたくて」真似をした。しかし誰も「真似をしている」とは認識したくなかったせいで捏造されたジャンル名のようなものが、つまりは「ビートパンク」の正体だった。そしてすなわち、これこそがインディーズおよびバンド・ブーム・バブルを最終的に膨らませられるだけ膨らませたものの正体でもあった。

 

 実体などない、虚妄にも近い「ジャンル」に若者は群がっていったのだ。そして雑誌やTVにはや囃し立てられては、自治体が「路上演奏してもいいよ」と差し出してくれた場所などを舞台に、我も我もと参加しては、演奏したり、演奏者を応援したりする。

 

 つまりそこには「マーケット」が生まれた。参加者が往々にして買い手も兼ねる奇妙なその市場は、もちろん「日本ならでは」の各種の規制や利権構造の上に、まさに砂上の楼閣として築き上げられた、かりそめのものでしかなかった。かげろうのようにはかなく、誰も見たこともないほど奇矯にしてにぎやかな「子供騙しの市場」でしかなかった。

 

 だからこのバンド・ブームは、すぐに終わった。「イカ天」の終了と同時ぐらいのタイミングだったか。日本らしく、見事にあとくされなく、「なにごともなかったかのように」パンク・ロックに似たバンドのブームは、その一切合切が消えてなくなってしまう。

 

 そしてその後も、日本におけるパンク・ロックの、ムーヴメント規模での蘇生は、とくになかった。驚くべきことに、ポストパンクの興隆も、ほぼまったくと言っていいほど、なかった。とくに後者が「ない」というのは、国際的に見てもかなりめずらしいのだが。

 

 つまり勃興期、東京ロッカーズの時代に次から次に登場してきたあとは、日本には「ポストパンクらしいポストパンク・アーティスト」が、ほとんどいないのだ。

 

 バンド・ブームのあとの1990年代前半から中盤に巷を賑わせた、いわゆる「渋谷系」も、洋楽ロックの素養が豊かであるとの触れ込みだったわりには、しかしパンク・ロック的な精神性はからきしだった。

 

 ゆえに渋谷系が「ポストパンク化する」ことは事実上不可能であり、実際なかった。だから英米欧ではとくにゼロ年代以降に顕著な「ポストパンク・リヴァイヴァル」現象は、僕が知るかぎり、日本において特記すべき事例はない。

 

 英米欧では、これまでに2~3回は大きな波があったのだが。2010年代以降は、ほぼ定着したジャンルにまでなっている趣すらあるのだが。

 

 と、そんなわけで、日本に1990年代以降のパンク・ロックの遺伝子はほとんど残ってはいないのだ。

 

 

 以上、川﨑大助氏の新刊『教養としてのパンク・ロック』(光文社新書)をもとに再構成しました。混迷の時代にこそ役に立つ、パンクの発想や哲学とは。

 

●『教養としてのパンク・ロック』詳細はこちら

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