ライフ・マネーライフ・マネー

「元寇の勝因は神風ではなかった」「江戸時代の外交は出島だけではなかった」大人が知らない日本史の新常識【鎌倉時代~江戸時代】

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.02.17 06:00 最終更新日:2024.02.17 06:00

「元寇の勝因は神風ではなかった」「江戸時代の外交は出島だけではなかった」大人が知らない日本史の新常識【鎌倉時代~江戸時代】

鎌倉幕府成立、1192年じゃない?

 

 受験シーズンの2月が到来。現代の受験生が解く日本史の内容は、大人世代の知っているものとは大きく異なっている。専門家に、「教科書から消えた」日本史の常識を解説してもらった。

 

<鎌倉>鎌倉幕府の誕生は「1192年」ではない。最有力は「1185年」

 

 鎌倉幕府の成立が「イイクニ」のゴロでお馴染みの、1192年ではなくなった。

 

 

「何を基準に武家政権が成立したと考えるか、という研究者の解釈の違いが理由です。幕府の成立については1180年から1192年まで、現状、7つほどの説があります。いまは教科書に『はっきりこの年』とは記載していませんが、朝廷が源頼朝に守護・地頭職の設置を許可した1185年が最有力とされています。1192年は頼朝が征夷大将軍に任ぜられましたが、これが幕府成立の決定打になるのか、研究者の間でも解釈が揺れています」(放送大学講師で、考古学者の山岸良二氏)

 

<鎌倉>『徒然草』の作者は「吉田兼好」ではなく「兼好法師」

 

 日本中世史を専門とする歴史学者・濱田浩一郎氏は、こう解説する。

 

「鎌倉時代末期の随筆集『徒然草』の作者は、鎌倉時代後期、南北朝時代の歌人です。かねて教科書に載っていた『吉田兼好』という作者名ですが、彼自身がこう名乗ったことはありません。彼の子孫がのちに『吉田』を名乗ったため、この名前が定着してしまいました。彼自身は卜部(うらべ)氏の息子。また、出家した後は『兼好』を法名としました。そのため現在は、『兼好法師』と記載されることが多く、『卜部兼好』と表記されることもあります」

 

<鎌倉>元寇の勝因は“神風”――台風ではなかった。勝因は元軍の「不協和音」と「幕府の武力」

 

 元軍による2回の襲来を退けたのは“神風”だった――そんな通説が変化していると解説するのは、南北朝時代と室町時代の研究者で、国立台湾大学助理教授の亀田俊和氏。

 

「1回めは11月で、台風=神風は季節的に吹かなかったという説もあります。2回めの襲来時の勝因は、防壁を造って、元軍の上陸を防いだ鎌倉幕府の軍事力だとされています。また、元軍の主力は征服されたばかりの高麗人や南宋人で、敵方の戦意は低かったといわれています」

 

<室町>足利尊氏の肖像画「騎馬武者像」は偽物だった

 

かつては「足利尊氏」の肖像として教科書に載っていた「騎馬武者像」。しかし、現在では「南北朝の争乱のころの武士の像」などと表記されている。

 

「戦前から、この『騎馬武者像』には疑問が持たれていました。尊氏の愛馬は絵のような黒毛ではなく、尊氏ほどの武将がこのような乱れた姿を描かせるとも思えません。さらに肖像の上に、尊氏の息子・足利義詮(よしあきら)のサインがあります。通常、格下の者のサインが肖像の上にあることはあり得ません。こうした理由から、『騎馬武者像』が尊氏の肖像ではないことは解明されています。馬具などに描かれた家紋は、足利家に仕えた高氏(こうし)のものであり、現在は、尊氏の側近、高師直(こうのもろなお)か、その息子・師詮(もろあきら)という2説が有力になっています」(濱田氏)

 

<戦国時代>戦国時代のスタートは、「応仁の乱」ではなく「享徳の乱」

 

 戦国の幕開けとされてきた「応仁の乱」だが、それ以前に戦いの火ぶたが切られていたことがわかっている。「応仁の乱の約10年前、関東地方一円で起こった『享徳(きょうとく)の乱』が、戦国の幕開けというのが最新の説。室町幕府と組んだ関東管領の上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と28年にわたり戦いました。応仁の乱は、いわば『戦国時代の第二ラウンド』です」(放送大学講師で考古学者の山岸良二氏)

 

<戦国時代>織田信長が掲げた「天下布武」は「室町幕府の再興」のスローガンだった

 

「『天下布武』とは、これまで『天下統一』のスローガンだと思われてきましたが、『天下』とは『日本全国』ではなく『近畿・畿内』。つまり、室町幕府があった京の都を指していたというのがわかってきました。とすると『天下布武』は、当時、影響力を失いつつあった室町幕府の再興を目指す保守的なスローガンだったのです。ほかにも、たとえば楽市楽座というのは信長の政策だといわれていますが、別の大名を模倣したというのがわかっており、信長は『従来の秩序を壊す風雲児』から『保守的な武将』という評価に変わりつつあります」(亀田氏)

 

<江戸>キリシタン発見の手法は「踏絵」ではなく「絵踏」

 

 江戸時代におこなわれた、キリスト教徒の取り締まりのために、キリストやマリアの絵が彫られた板を踏ませる行為。いまは「絵踏」と表記されている。「これはたんに、“踏ませるもの”と“踏ませる行為”の違いを明確にしたものです。以前、教科書でよく見た、踏まれ続けてつるつるになった金属板が、今は『踏絵』と表記されています」(濱田氏)

 

<江戸>「出島」以外にも「対馬」「松前」「薩摩」などで貿易をおこなっていた

 

「現在の学習指導要領から『鎖国』が消えています。そこまで厳しい外交制限をしていなかったことがわかってきたからです。江戸時代の外交には、“朝鮮への窓・対馬”、“琉球への窓・薩摩”、“アイヌ民族への窓・松前”と、旧来は唯一の窓とされてきた “中国とオランダへの窓・出島(長崎)” の『4つの窓』があったというのが現在の常識です」(濱田氏)

 

<江戸>士農工商ほど厳しい身分の区別はなかった

 

「江戸時代の身分制度として、この表記が適切ではないとされています。武士が支配階級だったのは間違いないのですが、それ以外の“農・工・商”には上下関係はなかったと現在は考えられています。また、土方歳三のように農民から武士になる、農家が街へ出て商業を始めるなど、“身分の横断”もある程度、頻繁におこなわれていたと考えられています」(濱田氏)

( 週刊FLASH 2024年2月27日号 )

続きを見る

今、あなたにおすすめの記事

ライフ・マネー一覧をもっと見る