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焼きそば革命100年史(1)戦後闇市からお茶の間へ普及するまで

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.01.19 16:00 最終更新日:2018.01.19 17:07

焼きそば革命100年史(1)戦後闇市からお茶の間へ普及するまで

大釜本店

 

「東京で巻き起こっている “焼きそばブーム” が、地方にも波及しはじめています」

 

 全国1000軒以上の焼きそばを食べ歩いた塩崎省吾氏が語る。

 

 日本独自の「ソース焼きそば」が生まれておよそ100年。これまで書かれることのなかった「国民食」の通史を、塩崎氏が太鼓判を押す名店を紹介しながら、集中講義する!

 

●第1次革命(1945年)
【大正時代に生まれたソース焼きそばが戦後ヤミ市で一気に普及】

 

 ソース焼きそばの起源は定かではない。だが遅くとも100年前、大正時代には、浅草界隈で食べられていたようだ。

 

「創業は1928(昭和3)年。焼きそばは当時からのメニューで、そのころは大判焼きやかき氷も売っていました」

 

 東京都台東区の「大釜本店 ※1」の4代目、青山久子さんがそう語るように、甘味とともに焼きそばを提供していた老舗が、下町エリアには何軒か残っている。

 

 転機は戦後のヤミ市だ。食糧難対策でGHQがもたらした小麦粉。醬油や砂糖などの統制下でも入手しやすかったソース。それらを用いたソース焼きそばは、原価も安く、水をあまり使わずにすむため、露店で重宝された。

 

 当時のソースは、砂糖の代わりにサッカリンなどの人工甘味料が使われ、加熱すると苦味が出てしまう。そのため薄味で調理し、客があとから自分でソースをかけるのがスタイルだった。

 

 新宿の「若月 ※2」や田原町の「花家 ※3」は、その時代の特徴が残る貴重な店だ。船橋競馬場の「東西商会 ※4」など、公営ギャンブル場にも当時の名残りをとどめる店は多い。横手や浪江、富士宮などのご当地焼きそばが誕生したのもこのころだ。

 

 戦前は「浅草焼きそば」と呼ばれ、細々と食べられてきたソース焼きそばは、こうして全国へと広まった。

 

※1 大釜本店
「当時は道路に面した鉄板台に行列ができていました」と青山さん。ツクバネソースをベースに味つけした「玉子入焼そば」(550円)は、わざと崩した黄身がコシのある太麺に馴染む。近所の有名天ぷら店から特別に仕入れている揚げ玉が隠し味だ
(住)東京都台東区清川1-29-5

 

※2 若月
 思い出横丁1948年創業。思い出横丁の名店。店頭の焼きそば(400円)の山が目印
(住)東京都新宿区西新宿1-2-7

 

※3 花家
 駅の階段を上がるとソースの香りが漂う。焼きそば400円
(住)東京都台東区西浅草1-1-18

 

※4 船橋競馬場 東西商会
 焼きそば(380円)はごく薄味。カレー風味の「あんかけ」もおすすめ
(住)千葉県船橋市若松1-2-1 船橋競馬場 スタンド1F

 

●第2次革命(1975年)
【家庭用チルド麺やカップタイプの発売で “お茶の間の定番” に】

 

 ソース焼きそばに新展開が訪れたのは、1975(昭和50 )年前後のことだ。1974年に恵比寿産業が初のカップ焼きそばを発売すると、「ペヤングソースやきそば ※5」や「日清焼そばU.F.O. ※6」などが相次いで登場。家庭への普及が加速した。

 

 なかでも特筆すべきは、「マルちゃん焼そば3人前 ※7」だろう。全国のスーパーで見かける定番だが、じつは日本で売られている「麺」のなかで、もっとも売れている商品なのだ。

 

「年間およそ3億食、これまでの累計では150億食を販売しております」と語るのは、東洋水産の山本理絵さん。しかも、これまでテレビCMを一切打たずに販路を広げてきたという。テレビで売り上げを伸ばしたインスタントラーメンとは好対照ともいえる。

 

 ただ、それら小売商品の完成度の高さは、「焼きそばは外食ではなく、家で食べるもの」というイメージを定着させた。焼きそばが家庭へ浸透するのと反比例するように、外食としての焼きそばは、皮肉にも不遇の時代を迎える。

 

※5 ペヤングソースやきそば
 まるか食品が1975(昭和50)年に発売。東日本で高シェア

 

※6 日清焼そばU.F.O.
 日清食品が1976(昭和51)年に発売。こちらは西日本で人気

 

※7 マルちゃん焼そば3人前
 発売当初は卸売市場で実演販売もした
 

塩崎省吾
1970年生まれ。ブログ「焼きそば名店探訪録」管理人。47都道府県、約1000軒以上の焼きそばを制覇
(週刊FLASH 2017年12月19日号)

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