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“芸人初”の推理小説!『ビートたけし殺人事件』東国原英夫氏は「フライデー襲撃事件」で謹慎中に執筆、ベストセラーに

東国原英夫氏は、そのまんま東名義で書いた『ビートたけし殺人事件』がヒット(写真・木村哲夫)
芸人が出す本といえば、エッセイや自伝、ネタ本が定番。口述のケースも多い。そんななか、観客や視聴者の歓声に背を向けて孤独に小説を執筆する芸人が、また増えている。書評家の杉江松恋氏が語る。
「芸人が書く小説の9割が短編で、キャラクター劇を膨らませたコントの台本のような物語が多いですね。昔は芸能人の名義貸しが多く、ゴーストライターによる作品ばかりでした。ビートたけしさんも『昔の作品は書いてない』と公言されています」
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1980~90年代には島田紳助の『風よ、鈴鹿へ』(1988年・小学館)、山田邦子『あっかんベーゼ』(1990年・太田出版)、ガダルカナル タカ『フェアウェイの罠 ゴルフトーナメント殺人事件』(1991年・太田出版)などが話題になった。
「ミステリーでデビューしたそのまんま東さん(東国原英夫氏)と元ABブラザーズの松野大介さん(『バスルーム』1996年・KKベストセラーズなど)は特殊な例で、書き手としての資質があったんだと思います。1990年代以降は名義貸しではなく、自分で書く人が増えていきました」(杉江氏)
ビートたけしの一番弟子だった東国原氏は1988年、そのまんま東名義で芸人初となる推理小説『ビートたけし殺人事件』(太田出版)を出版し、ベストセラーを記録した。本人が語る。
「僕は小さいころから推理小説を読むのが好きだったんです。実際に書いたことはなかったけど、江戸川乱歩賞を獲る自信はありました」
つまり、現在では数多(あまた)いる「芸人小説家」の草分けである。
「当時、『芸人が小説を書くのは初めてですよ』と言われた記憶があります。それまで、芸人が書く本といえば、だいたいネタ本でしたからね」(東国原氏、以下同)
執筆のきっかけは、芸能史に残るあの 「フライデー襲撃事件」だったという。
「1986年12月9日、集団で講談社の編集部に殴り込みに行くという前代未聞の事件が起こったわけです。私は反対だったんですよ。暴動を起こしたら、10本近くあったレギュラー番組を降りなきゃいけない。それに、江戸川乱歩賞の受賞作は講談社から出版されていたんですね。問題を起こしたら一生、乱歩賞を獲れなくなると思ったんです」
東国原氏は襲撃前に、たけしに恐る恐る小声で進言した。
「師匠、殴り込みは『フライデー』ではなく、『フォーカス』(新潮社)になりませんか?」
たけしにキッと睨まれ、それ以上は何も言えずしぶしぶ襲撃に加わった東国原氏は、事件の後、8カ月の謹慎処分となった。
「仕事がなくなり、外出するなと言われていたので、本でも書いてみようかと。ピンチをチャンスに変えようと思いました」
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の収録中に、たけしが忽然と姿を消した。探偵役のそのまんま東は、軍団のメンバーとともに事件を解明していく――。お笑い要素がたっぷり入った “笑えるミステリー” だった。
「原稿用紙で280枚。プロットはずっと頭の中にあったので、一日10時間ほど机に向かい、一カ月ほどで書き上げました。おもしろいものができたという自負はありましたね。はたして、本は数十万部売れて、印税が2000万円ほど入りました。フライデー事件の後に、『ビートたけし殺人事件』だったので、世間の耳目を集めたんじゃないかな。それまで、僕ら軍団の仕事は、体当たり芸やヨゴレ芸ばかりでしたが、僕は本が売れたことで、書き物のオファーが殺到しました」
1989年に『明石家さんま殺人事件』、1990年には『伝言ダイヤル殺人事件』(ともに太田出版)を発表した。そして、テレビドラマの脚本やエッセイ執筆の依頼も届くようになった。
「師匠、さんまさんの次には、タモリさんの殺人事件を構想していたんです。ご本人からも『好きなように書いていいよ』と許諾をいただいていたんですよね。だけど、テレビの仕事をたくさんいただいて、小説を書く時間がなくなってしまいました」
お笑い芸人ながら作家としても成功し、 “文化人枠” を手に入れた。
「文化人枠だとギャラが下がるんですけどね(笑)。人生で考えると小説の執筆は大きな分岐点になりました。今の仕事をリタイアしたら、また書くかもしれません」
写真・木村哲夫