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福沢諭吉は稀代の「炎上請負人」詐欺師スレスレの振る舞いでみずからリミッターを外していく「すごみ」とは

1860年、咸臨丸で渡米中、福沢諭吉は写真店の令嬢とツーショットを撮影(写真:近現代PL/アフロ)
明治を代表する啓蒙思想家、福沢諭吉。一万円札にも肖像を刷られたこの人物を知らない日本人はいないのですが、歴史上、これほど叩かれた人物も珍しいでしょう。そして彼ほどそのことを「どこ吹く風」といなすことのできた、器の大きな痛快な人もいないでしょう。
当時日本最高の思想家、最高の洋学者の一人であった諭吉、近代自由市民の価値を唱えた平等論者の諭吉は、稀代の炎上請負人でありました。時に拝金主義者と罵られ、時に日和見主義者と非難され、挙げ句の果てには日本文化の破壊者とも言われたのです。人間的魅力とは、こんなところから生まれるのでしょう。
暗殺の危険があったため、自宅に秘密の逃走通路を作る必要すらあり、そのことを自伝に書いたため、臆病者とも罵られています。実際のところ、暗殺の危険に何年も耐えながら自説を曲げなかったので、臆病者では決してなく、その豪胆さが褒められてもいいようなものですが、いつの時代もアンチからは言われ放題ですね。
命の危険を顧みず、現代の「論破王」ひろゆきもビックリの激しい煽りをやめず、アンチからは多種多様の「ディスり」が止まなかった福沢諭吉です。当時の権威であった漢学者と激しくやり合い、昭和になってからは稀代の知識人丸山眞男にヒーロー扱いされ、その反動でアンチ丸山陣営にこき下ろされた福沢諭吉。
令和に入ってからですら、戦争を煽った軍国主義者として、戦争犯罪の加担者として、中国思想を曲解した胡散臭い知識人として外国人研究者から批判され、侵略主義者、戦争肯定論者とみなされていることもあります。
そんなこんなで、日本国内でも福沢を敬愛する慶應関連の学者と、福沢をこき下ろすアンチ慶應陣営(とまとめていいかどうかは分かりませんが)の学者が、侃々諤々の議論を繰り広げている状態です。
ともかくも刺激的な『福翁自伝』を読むだけでも、この人はまず間違いなく、ホラ吹きの傾向があり、詐欺師スレスレの振る舞いをしていたことが分かります。
できもしない囲碁で、さも実力者のように振る舞ったり、船賃もないのに強引に船に乗り込んだり、政府のお金を私的に流用した廉(かど)で出入り禁止を食らったりと、多くのエピソードが落語調で自伝に描かれています。
まさに稀代の詐欺師としての福沢諭吉の自分語り、といったところでしょうか。何をどこまで信じてよいのやら、よく分からない著作です。
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そもそもが『福翁百話』では「思うことは、言ってはならない」と言っているのです。こんなことを書いてしまう著者の、何をどこまで真面目に扱っていいのでしょう? まさしく枠の中に「ここに書いてあることは嘘である」と描かれた自己言及のパラドクスを実現している書物です。
しかし、『文明論之概 略』を読めば、その論証力、語り口は今でも魅力的で説得力があり、福沢はとてつもなく頭がキレる人で、溢れる教養を備え、時代の先の先まで見越していたのも事実です。
福沢諭吉は実にとぼけた人間で、ユーモアで本音を包み隠し、特にその内に秘めたニヒリズム、絶望感、悲壮感を隠し通した人間でもあります。トリックスターであり、道化でもあった諭吉ですが、『福翁自伝』には、福沢諭吉研究でも最もよく引用される有名な文章があります。
《父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛されて何事もできなかったのだ。空しく不平を呑んで世を去ったのは遺憾である。
また初生児の行く末を心配し、これを坊主にしても名をなさせようとまでに決心した、その心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度に憤るとともに、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私にとって門閥制度は親の敵です。》
「門閥制度は親の敵」という決めゼリフからは、諭吉がどれほどアンチ封建制度、アンチ門閥体制、アンチ徳川であったかが読み取れます。ロックでありアナーキーな傾向が彼には確実にありました。
表面上は徳川にも忠勤してはいたのですが、幕府にお金をもらいながらも、「倒れるなら早く倒れた方がいい」と考えていました。忠臣とは決して言い難い態度で、そのことを当時から責められてもいます。
ここで面白いのが、儒教道徳と福沢諭吉の関係です。諭吉の父は諭吉が3歳の頃に亡くなったので、父親のことをそれほど直に知っているわけではありません。彼の父親像は、幼少期のあやふやな回想と伝聞を基に作り上げられた、想像上のもののはずです。
実際に諭吉の父親役をしていたのは10歳離れた兄だと考えられるのですが、父も兄も厳格な儒者でした。すなわち殿様と臣下の主従関係、夫と妻、親と子の上下関係、その礼節こそが大事、という価値観で生きていた人でした。
儒教は概ね体制側の考え方で、そこにはロックもアナーキーもなく、父親も兄もそちら側の人間でありました。言ってみれば、不満はあれども体制順応型の、「いい子」であったわけです。
実際に兄と諭吉はたびたび反目していますが、もし父親が生きていたら、福沢に何と言ったでしょうか? おそらく、そんなアンチ体制的な考え方は不敬だから止めなさい、とたしなめたのではないでしょうか?
そして諭吉の方は親が生きていて何を言おうとも、最終的には自分の好きなことをやり出したであろう人物です。福沢は「親の敵」という言い方で徳川時代の身分制度、その精神性を破壊しようと試みているのですが、基本的に目上の人の言うことなど何処吹く風、といったところがあった人です。
これは早くに父を亡くし、権威的な圧力から解放されたから、ということもあるでしょうが、福沢は文字通り神をも恐れぬ人でした。しばしば福沢の科学主義、実験精神、経験主義的な傾向を示すエピソードとして引用されますが、お札を踏みつける有名なエピソードがあります。
《兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故(ほご)を踏んで悪いと言えば、神様の名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で踏んでみたところが何ともない。
「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場(ちょうずば)に持って行って遣(や)ろう」と、一歩進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。》
現代社会では神仏の祟りを信じない人は多いでしょう。これは欧米から輸入した科学的なものの見方が強力で、科学が宗教的な見方を否定しているからでしょう。
しかしながら、日本に古くから根付く、神仏の祟り、といった考え方。そしてお守りを買ったり、神社を参拝したり、という風習に身をひたす日本人のことです。お守り、お札を踏みつけるという行為はなかなかできるものではありません。
福沢はそんな伝統、信仰を簡単に踏みつけて先に進みます。それも一度のみならず、お札を便所でもう一度踏みつけてみる、という不敬極まりない暴挙に出ています。
例えば今現在の大学生100人に聞いてみても、トイレでお守りを踏みつけることができる、という人はほとんどいません。皆無だと言っていいでしょう。これだけ科学文明の輸入と発展に成功した現代でさえ、古来の日本の宗教的価値観というのは足蹴にできないのです。
ところが福沢は簡単にそれをやってのけて、「発明」と言ってしまう。今の言葉で言えば、思い込みやリミッターを自分で外していく、その点において、福沢はやはり突出していて、常識を簡単に踏み越えていく、ある種の「狂人」であったと言わざるを得ないのです。
そして時代の先を行った福沢諭吉、その唯我独尊っぷりと言えばいいのでしょうか、何と言っても福沢の度胸、大胆さ、器の大きさたるや、やはり賞賛に値します。
彼は日本の行く末を本気で考えて、そのために自分の信じる道を突き進みます。諭吉が育ったのは儒教、漢学の世界観ですが、彼はそうした当時の一般常識を踏み越えて、先に進もうとするのです。
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以上、鈴木隆美氏の新刊『誤読と暴走の日本思想 西周、福沢諭吉から東浩紀、落合陽一まで』(光文社新書)をもとに再構成しました。「文化的接木(明治維新の際のドタバタ劇)」と「記号設置(新しい翻訳語が体に染みつくプロセス)」の観点から、日本思想史の新たな側面に光を当てます。
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