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「鉄腕アトム」の歌詞「ラララ」で考えるオノマトペ…作詞した谷川俊太郎の思いは「楽しけりゃいい」「遊んでほしい」

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記事投稿日:2025.10.18 11:00 最終更新日:2025.10.18 11:00
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
「鉄腕アトム」の歌詞「ラララ」で考えるオノマトペ…作詞した谷川俊太郎の思いは「楽しけりゃいい」「遊んでほしい」

西武園ゆうえんちに登場した鉄腕アトム(2021年、写真・時事通信)

 

 言語学では、語には「発音」と「語義」(=語の意味)が備わっていると考えます。それは、どちらかが欠けると語ではない、ということでもあります。

 

 谷川俊太郎の第1詩集『二十億光年の孤独』に収められている「二十億光年の孤独」には次のようなくだりがあります。

 

  火星人は小さな球の上で
  何をしてるか 僕は知らない
   (或はネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがつたりする
  それはまつたくたしかなことだ

 

『二十億光年の孤独』は1952年に出版されていますが、その頃は、促音にあてる「つ」を、現在のように小書きにしていなかったのですね。こんなこともちょっとした「発見」といっていいかもしれませんが、それはそれとして、引用中の「ネリリ」「キルル」「ハララ」は日本語にはないことばです。「火星人」のことばなのでしょうか。ここに、早くも谷川俊太郎が「音の詩人」であることがあらわれているようにみえます。

 

 谷川俊太郎は、『二十億光年の孤独』が出版された1952年の11年後にあたる昭和38年には、「鉄腕アトム」の歌詞を作詞しています。

 

 1番の始まりは「空をこえてラララ星のかなた」ですが、「ラララ」は添えられているのではなく、はっきりと言語化されています。「ネリリ」「キルル」「ハララ」はこの「ラララ」を思わせます。

 

 みなさんは「ネリリ」「キルル」「ハララ」なんて、今まで聞いたこともなければ使ったこともないと思います。ですから「ネリリ」「キルル」「ハララ」の意味は? と聞かれると困ってしまいますね。

 

 でもそれは「ラララ」でも同じだと思います。「ラララ」は使ったことがあるかもしれませんが、意味はわからないですね。そうすると、「ラララ」は、発音はあるけれども意味がない、ということになって、語ではない、ということになりそうです。

 

 では「ラララ」とは、何なのでしょうか。「どういう時に使うか」や「使い方」がほぼ決まっていて、語義=意味はないということからすると、「オノマトペ」と思えばよさそうです。「ワンワン」のような擬声語、「ガタピシ」「ピューピュー」のような擬音語、「ハラハラ」「ユラユラ」のような擬態語をあわせたものがオノマトペだと思ってください。

 

■意味をもたないオノマトペ

 

 オノマトペについてさらに考えてみましょう。

 

「ワンワン」はイヌの鳴き声を、そのような音としてとらえているということです。「ワンワン」には、起点となる音=イヌの鳴き声があります。ただし、言語によって、使っている音が異なるので、同じようなイヌの鳴き声であっても、それをどのようにとらえるかという「とらえかた」が異なることがあります。

 

「とらえかた」は、その言語が使っている音によってどう聞くかということであるので、「聞きなし」と呼ばれることもあります。日本のイヌは「ワンワン」と鳴くが、アメリカのイヌは「bowwow」と鳴くのだ、という話は、イヌの鳴き声が違うのではなく、その鳴き声を、日本語と英語とでどう聞くかという「聞きなし」が異なるということです。

 

「ガタピシ」や「ピューピュー」は、そういう音がしていると言われれば、しているような気がしますし、いやいや、そんな音はしていないでしょ、と言われれば、していないような気がしませんか。何か音はあるでしょうが、それがそういう音かどうかははっきりしませんね。起点となる音はありそうですが、象徴的なとらえかたといってもよいでしょう。

 

 また、「ゆらゆら揺れている」という表現でいえば、何かが「揺れている」時に「ユラユラ」というような音が出ているわけではありません。その「揺れている」状態を「ユラユラ」という語でいわば象徴的にあらわしているということです。

 

 擬声語も擬音語も擬態語も、どういう時に使うかということは説明できますが、それはそのオノマトペの意味=語義ではありません。ですからオノマトペは語ではない、と考えることはできます。また、意味=語義をもっていない特別な語群だと考えることもできます。

 

■意味なんかなくても楽しけりゃいい

 

 1981年に『わらべうた』(集英社)が刊行されています。『わらべうた』には「おならうた」が収められています。

 

  おならうた

 

  いもくって ぶ
  くりくって ぼ
  すかして へ
  ごめんよ ば

 

  おふろで ぽ
  こっそり す
  あわてて ぷ
  ふたりで ぴょ

 

 この作品について、谷川俊太郎は「ぼくは、オノマトペっていうのはもともとわりと好きだし、日本語はそのオノマトペがお得意なんですよね。だから、なんかスラスラできて、阿川弘之さんがね、学生時代からうちの父親との関係で知り合いで、時々、ぼくの詩についても言ってくれてたんだけれど、これをほめてくれたんですよ。うれしかったですね」(『ぼくはこうやつて詩を書いてきた』323頁)と述べ、オノマトペに対しての関心を語っています。

 

『わらべうた』には、女性ファッション誌『non・no』の昭和55(1980)年3月5日号に発表された

 

  とっきっきの ふくろから
  とっぽっぽが とびだした
  とっぽっぽを たたいたら
  とっくっくが こぼれでた
  とっくっくの かわむけば
  とっぴっぴが あらわれた
  とっぴっぴを わってみりゃ
  とっせっせが ねむってた
  とっせっせの ゆめのなか
  とっけっけが うごめいた
  はじけろ はじけろ とっけっけ
  かおだせ てをだせ わらいだせ

 

 という、「とっきっき」という題名の作品が収められています。「とっきっき」も「とっぽっぽ」も「とっくっく」も「とっぴっぴ」も、語義=意味がありません。

 

『ぼくはこうやつて詩を書いてきた』の『わらべうた』の部分の脚注に、「ぼくは意味を追求して悩むタイプじゃないんです。意味なんかなくても楽しけりゃいい、人生は味わって美味しければいいってタイプだから、意味から逃れられない詩よりも、意味ではないもので人を感動させる音楽に惹かれるんでしょうね。」と書かれています。

 

『わらべうた』には「あとがき」があって、その「あとがき」で谷川俊太郎は、『わらべうた』に収められている作品は「詩のかたちをしているけれど、学校でならう詩とはちょっとちがう。かんたんに言うとこれらは、ふしのついたことばだ。」「ぼくとしては、だまって頭の中で読むんじゃなく、ふしをつけて口に出し、耳で聞き、からだを動かして遊んでほしいのさ、友だちと。」「学校で教わることばもたいせつだけど、それだけがことばじゃない。こどもにはこどものことばがあるんだ。べんきょうすることばといっしょに、遊ぶことばもあるのさ。そのりょうほうがまじりあって、ことばを深く豊かなものにしていると思うな。」と述べています。

 

「べんきょうすることば」が「伝達言語」、「遊ぶことば」が「詩的言語」にあたりそうですね。

 

 

 以上、今野真二氏の新刊『谷川俊太郎の日本語』(光文社新書)をもとに再構成しました。谷川俊太郎の作品をこよなく愛する日本語学者が、作品をかたちづくる日本語について様々な角度から分析します。

 

●『谷川俊太郎の日本語』詳細はこちら

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