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飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.04.05 11:00 最終更新日:2018.04.05 11:00

飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで

 

 社長は社長を識る。取材した社長700人超、ネットワークが築かれ、仕事が生まれた――。

 

 京都市の北、かつて京北町と呼ばれた地域は、2005年に京都市右京区に編入合併された。細見昇市さん(55)は、北山杉で有名なこの町で生まれ育った。祖父の若いころは、町を流れる桂川に筏を浮かべ、北山杉を市内まで運んだという。

 

 実家は農業と林業を生業とし、小さなころから稲掛けや畑作業などの手伝いをした。長男だったが、小学校の卒業文集には「将来は世の中に役に立つ社長や政治家になる」と綴った。

 

「いちばん上が姉で、その後、兄が生まれましたが、未熟児ですぐ亡くなりました。母にとってお産は危険だったので、兄が生きていたらたぶん僕は生まれていなかったと思います。

 

 小学生のときにノストラダムスの大予言が流行りました。兄のことや、何度か事故で死にそうになったことがあり、小さいながらに人生は一回で、与えられたものという気がしていました。それなら人の役に立ちたいと思い、それが社長を目指す動機になっていきました」

 

 社長になるためには度胸も体力もつけるべきと考え、高校では野球部、大学ではボクシング部に入って鍛えた。大学4年生の就職シーズンに、英語も話せないのに『地球の歩き方』1冊を持って1カ月間のインド旅行をした。

 

「サラリーマンになるのがいいのか迷ったときで、自分を試したのですが、思いどおりに旅行ができた。それで自分が思った生き方をするべきだなと自信がつきました」

 

 就職活動はしていなかったが、たまたまリクルートがアルバイトを募集していて、いろいろな経営者に会えると書いてあった。勉強になると思い、面接を受け採用された。

 

「当時のリクルートはほとんどがアルバイト。それで正社員になろうと思いました。ところが正社員になるのには、2年間営業成績が一番でなければ無理だという話です。

 

 正社員にこだわったのは、それにもなれないようならしょせん独立なんて無理。だからなにがなんでもやってやろうと。新人時代の半年は毎日求人広告を出してくれる会社探しで、約400社に飛び込み営業をしていました」

 

 大阪勤務の後、京都勤務となったが、やることは同じ。会社をたくさん回るうちに勘が磨かれ、営業のコツもわかるようになり、成績はほとんど1位だった。

 

 そして2年3カ月でリクルートの正社員になった。次なる目標は市場規模の大きい東京。ちょうどリクルート事件が起きて東京の業績が落ち込み、テコ入れで転勤が決まった。

 

「新卒社員より早く、27歳で営業課長になりました」

 

 しかし、独立して社長になりたかった細見さんは1992年、結婚を機に(株)キイストンを設立し、リクルートの代理店を始めた。念願の社長。29歳のときが人生の転機となった。

 

「1992年はバブル崩壊が本格的に始まった年。週に1600件ぐらいあった求人が、翌年には450件ほどに落ち込みました。独立に対して文句も言わず、厳しいときはこっそり自分のお金を出してくれた妻に感謝しています。毎日飛び込み営業を繰り返しているうちに、京都時代のお客様を含め仕事が入るようになり、少しずつ軌道に乗りました」

 

 次に目指したのは株式上場。ところが、札幌証券取引所で株式公開価格まで決まりかけた2006年にライブドア事件が起き、その影響で結局承認されなかった。

 

「上場するために人を増やし、営業的にも無理をしたため客が離れてしまった。そこで少人数でも対応できるように方向転換をしました」

 

 銀行から借り入れをしてなんとかやり繰りした。そして、成果報酬型の求人サイトとの出会いと、求人ニーズの高い飲食業界に特化したことで業績が上向いた。

 

 飲食業界の社長にインタビューするサイトを立ち上げたことも大きかった。毎週更新し、取材した社長は700人を超える。ネットワークが出来て新たな仕事が生まれ、マスメディアとも仕事を始めた。

 

「社長になりたいなら、いま目の前にあることを一生懸命やる。捨てる神あれば拾う神もある。だから “絶対あきらめない” こと」

 

 細見さんの言葉だけに、説得力がある。
(週刊FLASH 2018年4月17日号)

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