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「アクションものなんかいいですね」三島由紀夫、得意満面で役者デビューするも結果は

ライフ・マネー 記事投稿日:2026.01.17 06:00 最終更新日:2026.01.17 06:00

「アクションものなんかいいですね」三島由紀夫、得意満面で役者デビューするも結果は

1960年頃の三島由紀夫(写真:Burt Glinn/Magnum Photos/アフロ)

 

 三島由紀夫は、昭和31年に発表した『金閣寺』が高い評価を得て、翌年1月、読売文学賞を受賞する。ドナルド・キーン訳『近代能楽集』がクノップ社から刊行されるのに合わせて同年7月からアメリカ、メキシコなどを訪れた三島は、昭和33年1月にマドリッド、ローマを経て帰国。そして、『金閣寺』を超える自身の代表作とすべく、満を持して取り掛かったのが『鏡子の家』であった。

 

 この小説は、昭和29年、鏡子の家に集まる4人の青年たちのうちの3人(夏雄、収、峻吉)と鏡子が、銀座界隈から晴海方面の埋立地に自家用車で向かう場面から始まる。

 

 三島と同様、ある新聞社賞を受賞した日本画家の夏雄はその後スランプに陥って絵が描けなくなり、神道霊学系の新興宗教の泥沼にはまり込む。三島と同様、ボディビルを始めた新劇俳優の収は(三島は昭和30年からボディビルを始めた)、サディズムの嗜慾のある愛人女性との性愛プレイの果てに心中する。三島と同様、ボクシングを行う峻吉は(三島は昭和31年秋から1年ほどボクシングの練習をした)、全日本フェザー級チャンピオンになったその晩にチンピラとの喧嘩で拳を砕かれて選手生命を断たれ、その後誘われるままに右翼団体の幹部となる。

 

 3人と異なり清一郎は、次期社長の娘と結婚して世俗的な成功の階段を昇ってゆく(清一郎と同様、三島も昭和33年に結婚した)。しかし彼もまた、赴任先のニューヨークで新妻を、ゲイの男性に寝取られるという滑稽な事態に見舞われるのだった。

 

『鏡子の家』は冒頭の一部が雑誌「聲」に掲載されたのみで、昭和34年9月に書下ろし2巻本(第1部、第2部)として新潮社から刊行されるまで、全篇の内容は明かされなかった。しかし、雑誌「新潮」に連載された三島の日記(『裸体と衣裳』)で、たびたび執筆の進捗状況が報告されたこともあって、読者の期待は大きかった。

 

 その結果、あまり知られていないことだが、『鏡子の家』には、大映、東宝、松竹、日活の4社から映画化の話があった。大阪での『鏡子の家』サイン会の際のインタビュー記事の一部を紹介しよう(「スポーツニッポン」大阪版、昭和34・10・6)。

 

《四社から話があるのは事実ですが、まだなに一つ具体的なことは決まつてないんですよ。ぼくとしてはよく読んでもらい、よく内容をつかんだうえで映画化してほしいと思う。ゆつくりかかつていいスタッフでやつてもらえるならそれが一番いい。映画化する場合、例えばニューヨークでの話なんかどうするか、という問題がまず出てくる。なにもロケする必要はないが、セットでそれをどの程度まで表現されるかが問題だ。

 

 それと、小説自体が四つのエピソード(鏡子の家に集まる貿易商社社員、日本画家、新劇研究生、大学の拳闘選手の四人の男性が主人公)からなつているし、それぞれの話がパラレルに進行する関係で映画化は大変むつかしいと思う。この前の「金閣寺」(炎上)はぼくの作品の映画化のうちでも一番いいもので、あれ以上のものはちよつと出ないのじやないかな。》

 

 そして、「スポーツニッポン」(10・18)には、早くも大映による映画化が決まったとの記事が出る(監督は市川崑)。ところが、11月14日の「朝日新聞」(夕刊)には、「三島由紀夫氏俳優に」という見出しで、次のような記事が掲載された。

 

《作家三島由紀夫が俳優として大映と契約、来年一月から主演作品(白坂依志夫脚本、増村保造監督)の撮影をはじめると十四日、永田大映社長は発表した。これは三島氏の才能にほれこんだ永田社長のすすめによって実現したもので、第一作が成功すれば、その後も一俳優として大映作品に出演するという。》

 

 翌15日には、スポーツ紙を中心に、前日の帝国ホテルでの記者会見の様子が伝えられた。次は「報知新聞」の記事である。

 

《『ええ、新人の三島由紀夫でございます』

 

“慎太郎刈り”をさらに短く切りつめた“由紀夫ヘヤー”での登場だ。

 

『私はいままで人生意気に感ずる─ということのまったくなかった人間でしたが、社長にラッパを吹きまくられて、意を決しました。私はもともと小説家としてよりは役者としての才能に恵まれていると考えておりましたが、その“危惧”が日の目を見ることになりました。お引き受けしたからには一生の思い出になるような仕事をしたい』

 

 と神妙な面持ち。

 

『作家として人生を眺めたのとは別のものが必ず引き出せるに違いないと信じています。役はくずれたものがいい。アクションものなんかいいですねえ。自分の原作を主演するつもりはありません』

 

 と抱負を語る。

 

 三島氏をスクリーンに引き出した永田社長は

 

『三島君の役者としてのキャラクターには前から注目していた。二ヵ月前から口説いてやっと成功したんだが、奥さんは猛反対だったようだ。さいわい、私が奥さんのお父さん(画家杉山寧氏)と親しかったのでカラメ手も攻略できた。わが社の“大作一本立”はいよいよこれからだよ』

 

 と得意顔だった。》

 

 かわりに、『鏡子の家』の映画化は、曖昧なまま立ち消えになる。穿って言えば、『鏡子の家』の映画化を餌に、三島を釣ることが永田社長のやりかただったと疑われるふしもある。こうして三島は罠に落ちた。

 

 三島主演映画は脚本が菊島隆三に代わり(後に安藤日出男も共同執筆として参加)、「からっ風野郎」として昭和35年3月23日に封切りされた。気弱なやくざ朝比奈武夫が、恋人芳江の純粋さに触れて、やくざから足を洗おうとする直前に抗争相手に殺されてしまう話である。芳江を演じたのは若尾文子であった。

 

 しかし、2月8日に撮影が開始すると、増村の演出は容赦なく、三島にとって耐え難い試練が続いた。3月1日の午前零時過ぎには、数寄屋橋の西銀座デパート内での撮影中に、演技でエスカレーター上に倒れた際に誤って頭を強打し虎の門病院に入院する。15日午前零時過ぎに撮影を終えると、「映画出演はもうたくさん、まんじゅう一箱食わされた感じだ」(「日刊スポーツ」昭和35・3・16)などと語っている。

 

 肝心の映画の評価も、興味本位の話題にはなったが、冷ややかに見る者も少なくなかった。ポスターが風に揺られているのを見た江藤淳は、「ああ間違えてるな」と思ったという(「三島由紀夫の家」、「群像」昭和36・6月号)。

 

 いったい、どうしてこういうことになってしまったのか。ここで、押えておかなければいけないのは、日本の映画館の年間観客動員数は、11億3000万人という驚異的な数字に及んだ昭和33年がピークだったということである。以後、テレビの普及により動員数は下降し、実は昭和34年の時点で、大映はすでに経営不振に苦しんでいた。

 

 企業の栄枯盛衰は、高度経済成長の光と影をなすものである。そうだとすれば、三島の役者としてのキャラクターが買われたなどというのは方便であり、実際には大映の会社経営の損得勘定によって、三島の話題性が利用されたに過ぎない。うっかりその流れに乗り、新人(ニューフェイス)の三島由紀夫と名乗ってマスコミの寵児となることを喜んだ三島であった。

 

 

 以上、井上隆史氏の近刊『三島由紀夫を誰も知らない』(光文社新書)をもとに再構成しました。多面体の作家の本質を探る論考集です。

 

『三島由紀夫を誰も知らない』詳細はこちら

出典元: SmartFLASH

著者: 『FLASH』編集部

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