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1585年、メディチ家の宮廷でダンスした日本人がいた!「天正の遣欧使節」伊東マンショのイタリア渡航

ライフ・マネー 記事投稿日:2026.02.21 06:00 最終更新日:2026.02.21 06:00

1585年、メディチ家の宮廷でダンスした日本人がいた!「天正の遣欧使節」伊東マンショのイタリア渡航

伊東マンショの肖像画(写真:Heritage Image/アフロ)

 

 1585年初春、トスカーナ大公国所轄のリヴォルノに、地球の裏側から一隻の船が入港した。九州のキリシタン大名がヴァチカンへ派遣した少年使節団である。イエズス会の神父たちに引導されたこの「天正の遣欧使節」は、歴史教科書にも載っているので知らない人はいないだろう。

 

 大友宗麟の名代、伊東マンショを主席正使とする一行は、ヨーロッパを訪問する日本初の公式使節団だった。13歳から14歳の4人の少年武士たちは、長崎を出航して3年、皆15歳を超え、当時の日本で言えば元服の年齢、即ち一人前の大人となっていた。

 

 目的地はローマだったが、船はその前にフィレンツェに立ち寄った。ラテン語を流暢に話すこの若武者たちを、メディチ家のフランチェスコ一世夫妻は大歓迎した。宮殿や庭園、また動物園なども案内して、メディチの威信を見せつけたというが、ただしボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』のようなオールヌード作品を鑑賞することは神父たちに止められた。絵画はもっぱら受胎告知など聖書画しか見せられなかったようだ。

 

 とはいえ、通りには男性ヌードの巨大な彫刻が立っているし、絵画でも悔悛のマグダラのマリアなどは半裸なわけで、人体を正確にリアルに表現する芸術のありようは、クリスチャン武士たちにとって衝撃だったことだろう。いずれにせよ、イタリア・ルネサンスに直接触れた日本人は彼らの他にはいなかった。

 

 もし新しもの好きの信長が本能寺の変(1582)を生き延び、彼自らルネサンスを体験していたらどんなに面白かったろうか。後世の浮世絵の描写もずいぶん変わっていたに違いない。

 

■メディチ家の美女と宮廷でダンス

 

 少年たちのトスカーナ大公国での意外なエピソードが記録されている。フランチェスコ一世が催した舞踏会で、伊東マンショが大公妃ビアンカとダンスをしたというのだ。

 

 脂粉の香りを漂わせ、胸の谷間をのぞかせたドレス姿の豊満なヴェネチア美女に、若いマンショは気圧(けお)されながらも、侍として堂々と受けて立ったようだ。ダンスシーンの絵画はないが、この時期の彼ら2人それぞれの肖像は残っている。

 

 マンショは白いラフ(襞襟=ひだえり)を着けた洋装で、肌は浅黒い。これは白人から見たアジア人に対する印象というよりは、長い洋上生活で実際に船乗りなみに日焼けしていたからだ。うっすら髭を生やし、唇は肉感的。目に特徴があり、いささか藪睨みということがはっきり示される。

 

 天草四郎のような美少年でなかったことは確かだが、自らの使命の何たるかをよく知った落ち着きは感じられなくもない。とはいえ、どこか茫洋としており、これは画家が異国人の表情の解釈に苦しみ、描いていて確信がないために思えてしまう。

 

 ビアンカ像は、日本ではあまり知られていない画家シピオーネ・プルツォーネ(1544〜1598)作品。

 

 マンショと踊った一年前に描き始められたので、彼が間近で見たビアンカの姿に近いだろう。現代人が思う美女はファッションモデルのイメージなので、それに比べればぽっちゃりしすぎている。だが何より瞳が生き生きと輝き、話しはじめると表情は豊かで、身振り手振りも大きな、陽気で楽しい相手だったと想像できる。この、いかにも釣り合わない2人が宮殿で踊ったのだ。

 

■帰国後の悲劇

 

 マンショたちのその後について短く触れたい。

 

 ローマで教皇グレゴリオ13世に謁見した彼らは目的を達し、これでキリスト教を日本でいっそう広められると信じて帰路についた。長崎に到着したのは1590年。出発から8年もたっていたので祖国の情勢は激変していた。豊臣秀吉が政権をとり、バテレン追放令も出されていた。

 

 マンショたち4人の使節は秀吉に謁見し、キリスト教禁止を撤回してくれるよう請うたが叶わなかった。秀吉は、西洋がアジアを植民地化するための尖兵としてキリスト教布教を行っていることを知っていたのだ。

 

 日本の未来にとって秀吉のこの政策は実に正しかったが、純粋に信仰の道を追求してきたマンショたちには理解の外だった。4人の運命は切ない。マンショは宣教師となったが失意のうちに病死。あとの3人のうち1人は棄教、1人はマカオ追放、最後の1人は凄まじい拷問を受けて殉教し、ヴァチカンから列福されている。

 

 フランチェスコ一世とビアンカの寿命も短かった。マンショとダンスしたわずか2年後、夫婦はフランチェスコの弟である枢機卿フェルディナンドの別荘で急死したのだ。この兄弟は以前からきわめて仲が悪く、フェルディナンドがビアンカの子どもにメディチ家を継がせたくないと思っていたことは周知の事実だった。兄夫婦の死は食中毒と発表されたが、いったい誰が信じよう。

 

 

 以上、中野京子氏の近刊『名画で読み解く メディチ家12の物語』(光文社新書)をもとに再構成しました。商家から成り上がって芸術都市フィレンツェを統べたメディチ家の歴史を絵画とともにお届けします。

 

●『名画で読み解く メディチ家12の物語』詳細はこちら

出典元: SmartFLASH

著者: 『FLASH』編集部

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