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監督になりたい!在学中からピンク映画の世界に飛び込んだ男
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.05.10 20:00 最終更新日:2018.05.10 20:00
撮った作品は100本あまり。子供ができて映画制作のスタンスが変わった。そのわけとは――?
苗字の「城定」は「じょうじょう」と読む。あまり聞かないが、出身地の東京・八王子ではそれほど珍しくないそうだ。
「学校では一学年に2人ほどいた。昔、西八王子にあった有名なラーメン店の店長も城定、城定信次というサッカー選手もいた」
そう語る城定秀夫(42)さんは、ピンク映画やVシネマの監督、脚本家として知られる。ちなみに監督デビュー作『味見したい人妻たち』でピンク大賞新人監督賞、その後『悦楽交差点』などで作品賞、監督賞、脚本賞を受賞している。
「映画への興味は高校生のときから。当時、家は千葉県の我孫子にあり、そこから巣鴨の高校まで通っていた。池袋や高田馬場、銀座などに名画座がいっぱいあり、黒澤明や岡本喜八などの日本映画をよく観た。
そのなかで、ロマンポルノがあることを知った。観たら普通の映画にはない手作り感や空気感、ちょっと貧乏くさい感じとかがあってすごくおもしろかった。亀有名画座ではロマンポルノを週替わりで月5本上映していて、亀有に着くと学生服を便所で着替えて、観に行っていた」
映画監督を目指して武蔵野美術大学造形学部映像学科に入った。映画理論の授業はほとんどなく、映画作りは学校で習うものではないことを知った。
すでに、大手映画会社の助監督から監督になるというシステムは崩れていた。一方で、ピンク映画では3、4年助監督を務めれば監督になれるという噂を聞いていた。
「こういう映画を撮りたいとか、こういう表現をしたいというより、職業として映画監督になりたいという思いが強かった。自分でこれならやってみたいと思ったのは、ロマンポルノかもしれない。
大きな作品は、正直どうやって作るのかわからなかった。ロマンポルノはもうなかったが、在学中から監督を目指して、わずかに残るピンク映画の世界にスタッフとして入った」
卒業後、スタッフから助監督に。そして2003年、27歳で監督デビュー。噂は本当だった。ところでピンク映画とは、日本のポルノ映画のうち、ピンク映画専門館で上映される映画を指す。
専門館は、今は都内にはほとんどない。製作・配給する会社も昔は10社ほどあったが、今は「新東宝、エクセス、オーピー映画の3社。現在継続的に製作しているのはオーピー映画のみ。そこで作るのがピンク映画だ」。
城定さんの転機は助監督から監督になったときで、助監督と監督とでは考えることや、仕事がまるで違うことを実感したという。しかし、それ以上に大きな影響を受けたのが、32歳のときに子供を授かったことだ。
「それまでは作りたいものを作って、売れなくなったら終わりでいいという意識が強かった。子供が出来てからは、とりあえず求められたものをちゃんと作ろうという意識のほうが強くなった。エロ映画だったら、前はどのようにおもしろいドラマを作り、そこにどうエロを入れていくかが主眼だった。
今はエロ映画を観に来る人が何を求めているかというところから考える。仕事としての意識がより強くなった。有名になりたいというより、どちらかといえば子供が成長するまであと10年、仕事を続けたいという思いのほうが強い。10年たったらこれはまた変わるかもしれない」
ピンク映画は製作予算300万円、撮影3日間といわれる。しかし脚本、編集の時間を入れると、一作品に2カ月はかかる。ピンクに限らず、映画で食べていくのは難しい。
「金儲けしたいという考えがあったら、映画はやらなかった」
ただアイドル主演の映画を撮るなど、間口は広げている。
「予算の多寡で力の入れ方を変えるような仕事のやり方はせず、できることを精いっぱいやるスタンス。エロが得意な監督として見られるのは光栄なこと」
この夏に、かつて壇蜜が主演して評判となった『私の奴隷になりなさい』の続編、『ご主人様と呼ばせてください』が一般映画として公開される予定だ。
(週刊FLASH 2018年5月22日号)