私は1990年代に警視庁に入庁し、外務省に出向した3年間を除くと、通算でおよそ20年間、警察官として勤務してきた。その大半、私が在籍したのは公安部である。
首都東京の治安を担う警視庁には、公安部のほかに、刑事部、生活安全部、匿名・流動型犯罪グループ対策本部、警備部、交通部などのセクションがある。
テレビドラマや映画の犯罪ものでおなじみなのは、なんといっても刑事部だ。殺人事件を捜査し、犯人を逮捕する過程がヒロイックに描かれることも多いので、市民の目には自分たちを犯罪から守ってくれる頼もしい存在として映っていることだろう。
一方「公安」はというと、ドラマや映画に登場することも少なく、出てきたとしてもどこか暗い翳のある存在だったり、刑事と対立するシーンもあったりするので、どこか得体のしれない不気味なイメージを持つ人が多いかもしれない。
そのイメージの源泉は、その出自にあることは論をまたない。
公安という組織は、戦前の特別高等警察部、略して「特高」にたどりつく。共産主義者などの反体制思想の持ち主を取り締まり、戦争中は戦争に反対する市民を次々に弾圧し、投獄に追いこんだ、あの悪名高き特高警察である。
しかし戦後になり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令によって、特高警察は廃止された。ただ、国家の治安と体制を守る精神は残され、警備課として再出発することになった。そして、さらなる再編で警備課は公安課に名を変え、国家の基盤を覆がえそうとする思想的・政治的背景の集団犯罪を取り締まる組織として確立された。これが、戦後の公安である。
その捜査対象は、時代とともに移り変わり、学生運動が盛んな時代は極左暴力集団、いわゆる過激派が中心だったが、その活動が下火になると、危険な教義を掲げる新興宗教団体、右翼団体、市民団体などに変わり、現在では多岐にわたっている。
外国による対日工作やスパイ活動、国際テロリズムなどを捜査する「外事警察」は、この公安部の一部をなしている。「外事警察」の正式名称は「警視庁公安部外事課」。東京都を管轄する警察組織である警視庁、その公安部に所属する課である。
外事警察の使命は、外国や外国人によって日本の安全が脅かされる事態を水際で阻止すること。つまり、テロリストがテロを企てたり、スパイが日本の国家機密や企業の機密データを盗み取ったりするのを事前に防ぐのが仕事である。
だから、外事課の仕事が表に出ることは滅多にない。事件が表面化する前に、水面下で処理しているからだ。事件が多くの人に知られることになれば、外事課の仕事としては失敗と見なされるのである。実際、日本では外国人によるテロ事件やスパイ事件、亡命事件などが報道されることはほとんどないといっていい。しかし、それは「何も起きていない」という意味ではない。
報道で明らかになっただけでも、さまざまな事案が起きている。
たとえば2026年1月、工作機械メーカーの元社員が社内の秘密情報をロシア側に渡していたとして書類送検された。相手先はロシア通商代表部の元職員と報じられている。
通商代表部は大使館とは別に設置された拠点であり、そこにはSVR、すなわちロシア対外情報庁というインテリジェンス(諜報)機関の関係者がいると見られている。
報道では「軍事転用可能な技術」と説明されていた。いわゆるデュアルユース(軍民両用)技術である。工作機械は民生用にも使われるが、精度や制御技術によっては軍事利用が可能になる。具体的な技術内容が公表されないのは当然であり、それは企業の存続に直結するからである。
この種の対ロシア案件を実務で担うのは、警視庁公安部外事課である。報道では「公安」とひとくくりにされるが、対外諜報案件は外事部門が扱う。
もっとも、こうした情報工作は決して目新しいものではない。
2020年には、通信大手ソフトバンクの社員が社内の技術情報をロシア側に漏洩したとして摘発された事件があった。接触のきっかけは街なかでの声かけだったとされる。名刺交換をし、食事を重ね、関係を築いた上で情報提供を求める――いわば古典的な手口である。最初はヨーロッパ系の人物を名乗り、警戒心を解く。こうしたやり方は今も形を変えず続いている。
また、2026年2月には、住友商事の社員が横須賀の米軍基地に出入り(不法侵入)していたとされる事実が明らかになった。報道では「軍事マニア」と説明されたが、問題は動機ではなく「どうやって入ったのか」である。
米軍基地の入退管理は厳格であり、IDは単なるカードではない。ICチップに格納された情報が中央データベースと照合され、通過ログも記録される。基地内レンタカーの利用もID情報と連動している。拾ったカードの写真を貼り替える程度で突破できるものではない。
ちなみに、この横須賀の件は、中国のスパイ関連で指摘されることのある「ゲートクラッシャー」型に似ている可能性も考えられる。偽造身分や正規資格を装って基地や重要施設に侵入する手法である。もちろん、これをもってただちに特定の国家の関与を断定することはできないが、いずれにせよ個人の突発的な行動で完結する話とは考えにくい。
仮に偽造IDが使用されていたのであれば、発行プロセスへの侵入、既存データの改変、あるいは内部協力者の関与といった可能性が想定される。いずれも一定の準備と環境が必要である。
この件が明るみに出たのは、都内での駐車違反の取り締まりがきっかけだったと報じられている。諜報事件は映画のように派手な場面から始まるわけではない。日常の些細な端緒が、やがて全体像を浮かび上がらせることもあるのである。
ただ、こうした事案が表に出るのは、ごく一部である。多くは水面下で処理される。繰り返しになるが、事件が広く知られることになれば、それは外事警察としては成功とはいえない。
よって公安警察の活動は、人々に称賛されることも評価されることもほとんどない。それでも彼らは、来る日も来る日も地べたを這うような地道な任務を続けているのである。
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以上、勝丸円覚氏の新刊『警視庁公安部外事課 スパイ・テロを水面下で阻止する組織の実態』(光文社新書)をもとに再構成しました。外国人によるスパイ・テロ・犯罪行為を未然に阻止する組織の実像をきわめて具体的に描きます。
●『警視庁公安部外事課』詳細はこちら
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