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アメリカ兵に凄んだ升田幸三名人ほか「伝説の棋士」列伝
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.06.22 09:00 最終更新日:2018.06.22 09:18
「藤井聡太七段は、小学校時代に小池重明・アマ名人と大山康晴・十五世名人の棋譜を熱心に研究したそうです」(将棋関係者)
【升田幸三・第四代名人(1918年〜1991年)】
「名人に香車を引いて勝つ」と、13歳のころ母親に書き残した升田。第5期王将戦第4局で、大山名人相手に実現している。
「『新手一生』を掲げ、升田式石田流など今では定跡となった戦法を見出した鬼才です」(観戦記者の椎名龍一氏)
終戦直後、米兵に将棋で取った駒を使うのは捕虜虐待だと言われ、「チェスで取った駒を使わんのは捕虜の虐殺だ」と凄んだ剛毅さが知られる。升田はじつは加藤一二三九段の結婚式で、仲人を務めている。
【大山康晴・十五世名人(1923年〜1992年)】
大山は、死去するまでA級に在位、名人在位通算18期という輝かしい実績を持つ “大名人” だ。
「対局の前夜祭で豪快に食べ、若手棋士に劣らない強壮さをアピールする盤外戦術も巧み」(加藤九段)だった。升田と争った第16期名人戦では、夕食休みにブドウ糖とビタミンを注射するほどの死闘を繰り広げた。
「将棋連盟会長を務め、対局の間にその仕事をこなすこともあったそうです」(椎名氏)
現在の「将棋会館」は大山会長時代に建設された。
【阪田三吉・贈名人・王将(1870年〜1946年)】
独学で学び、賭け将棋に明け暮れた20代前半のころは、「堺の三吉」として名を馳せた。25歳のときに、関根金次郎十三世名人と出会い、終生のライバルとした。生涯を関西棋界の勃興に捧げた。
ある対局で、相手棋士が会場の政財界の名士に挨拶しているのを尻目に、「阪田は盤上で挨拶させてもらいます」と言った自負心の強さを尊敬する棋士はいまも多い。
【木村義雄・十四世名人(1905〜1986)】
初の実力制名人。“常勝将軍” と呼ばれる強さを誇った。請われて陸軍参謀本部で講演をおこなったこともある、戦前の棋界の第一人者だった。その最盛期は将棋連盟の全収入の半分を手にし、愛人が7人いたという逸話も残る。
1937年に阪田に勝利した「南禅寺の決戦」で、木村は高級料理亭の仕出しが気に入り、「俺はこの金(賞金)で板前を雇いたい!」と勝利の第一声を発した。
【小池重明・アマ名人(1947〜1992)】
賭け将棋で生計を立てる“真剣師”のなかで、“新宿の殺し屋” と恐れられた。1980年と1981年にアマ名人のタイトルを獲った後、角落ちのハンデ戦ながら大山名人に勝利。大山に、「将棋って、こう指すもんだろう?」と言い放った。
その後、金銭トラブルが報じられ、棋界から事実上追放。苦境に喘ぎながら44歳で死去。
【村山聖・九段(1969年〜1998年)】
「村山さんは『終盤は村山に聞け』と言われるように、終盤に強かった」(加藤九段)という。「東の羽生、西の村山」と、「羽生世代」のなかでも将来を嘱望された。
幼少期から病魔と闘い、25歳の若さでA級入りするが、膀胱ガンを患い、29歳で夭折。切り花よりも、鉢植えを好んだ。その理由について、米長邦雄は雑誌の連載に、「切るという動作が命を絶つということにつながるので忌み嫌ったのだろう」と綴っている。
【米長邦雄・永世棋聖(1943年〜2012年)】
「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前」と喝破、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌードを掲載……破天荒な言動がファンに愛された。
その棋風は「泥沼流」。名人戦に7度も挑戦し、史上最年長の49歳で中原誠を破り名人になった。
「米長さんはとても研究熱心な人でした。新しい米長流の指し方を編み出し、成功した例はたくさんありましたね」(加藤九段)
(週刊FLASH 2018年6月5日号)