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日本語を学びつつラーメン店を開業した男 18年で売上120億円に

ライフ・マネー 投稿日:2018.07.27 06:00FLASH編集部

日本語を学びつつラーメン店を開業した男 18年で売上120億円に

 

「失敗は成功の母」を地で行く人生。ラーメン店から、M&Aを成功させて急成長企業となった――。

 

 中国残留邦人だった祖母が2人の息子、その家族とともに帰国したのは1989年のことだ。翌年の10月、藤井健さんの父親は、一家と親戚など200人近い人と一緒に来日した。藤井さんが12歳のときである。

 

 

「横浜の本牧にある小学校の、6年のクラスに11月から通いました。僕と妹と従兄弟5、6人が同じ学校。日本語がわからないので、学校では別室でボランティアの先生から日本語を習いました。

 

 言葉が通じなくても同級生と一緒に遊びましたが、困ったのは給食の牛乳。まったく飲めなくて、こっそり捨てるのに苦労しました」

 

 父親の仕事の関係で金沢八景に引っ越し、翌年の4月からはそこの中学に通った。

 

「学校で外国人は僕とベトナム人の2人だけ。かえってそれがよかった。人気者というか、注目されました」

 

 ただ、貧しかった。 
 制服は先輩が残したお古。中国には弁当を作る習慣がないため、昼食はパンを注文するのだが、お金がない。10歳の妹と2人で、隣駅の花屋で閉店後の片付けの仕事をした。

 

「夜7時から9時過ぎまで。1日で2000円。月に2万円から3万円ぶん働きました。妹にお小遣いをあげて、残りは昼食のパン代」

 

 中学2年生になると仕事をした。授業がわからないので学校にいる時間が惜しく、年齢を偽って飲食の世界に入った。最初はホール(接客係)だったが、料理の技術を身につけることを考えるようになった。

 

「隣町の中華食堂に移り、ホールと厨房で働いて、料理も作った。15歳になると中華街の店に修業に入り、3、4年働きました」

 

 その店を辞めた後は飲み屋で働き、朝・夕刊の新聞配達と勧誘をした。働き詰めだったが、1カ月に40万~50万円の収入があり、貯金をした。

 

「でも、このままではいけないと思って、修業した中華街の店に戻りました」

 

 自分のラーメン店を持ったのは22歳のときだ。大金を払ってある店のレシピを買い、その店で研修、修業してからの出店だったが、失敗した。マーケティングがわかっていなかった。よりによって、家系源流の吉村家が近くにあるうえ、壱六家という有名なラーメン店の地元に店を作ってしまったのだ。

 

「僕は社長ではなく、経営者と名乗っています。若いころは、怖いもの知らずで、勢いだけでやっていました。今は経営の『経』は経験、『営』は営業と心得て、事業計画を作っています。銀行に出す資料も含めて立案し、さらに売り上げを伸ばす工夫ができるのが経営者」

 

 最初の失敗後、ラーメンのFC店も経営したが、うまくはいかなかった。心労から店で倒れ、救急車で運ばれたこともあった。

 

「借金を抱えてから、逆転するまでに約10年かかりました」

 

 成功のきっかけは、2005年に新潟県新発田市のイオンに、急遽中華料理店を出店したこと。オープン2カ月前に突然キャンセルした店の代わりを、知り合いの担当者から頼まれたのだ。彼の窮地を救うとともに、チャンスと転機が同時に訪れた。

 

 翌年、同じ担当者から浦和美園と柏のイオンへの出店 を依頼された。その店が大ブレイクした。

 

「本格的な中華料理をリーズナブルな値段で食べられる、というコンセプトが当たりました。これで会社の基盤ができました」

 

 以後、イオンへの出店が続いた。

 

 さらに転機が訪れる。M&A(合併と買収)である。2013年、モスバーガーの運営会社の子会社で、ちりめん亭を経営する(株)トモスを買収する。大きな話題を呼び、一躍「ケンコー」の名を世に広めた。

 

 以後もM&Aを積極的に手がけ、現在は8社をグループ会社化して大幅に利益を上げている。

 

「店を始めてから18年。8年前は年間の売り上げが4億円ぐらいだったのが、いまは120億円。自分でも考えられない。『失敗は成功の母』といいますが、本当にそうだと思います」

 

 藤井さんの現在の目標は、自分の分身を全国に作ることと、2030年に売り上げ300億円を達成することだという。
(週刊FLASH 2018年8月7日号) 

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