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ケータイ生産に疲弊した男、人生を変えたのは「こげた焼き鳥」
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.11.01 11:00 最終更新日:2018.11.01 11:00
業態からメニューまで店のすべてを我流で作る。その数500店超。活動範囲は海外に及ぶ。
人に言われたことが転機を呼び込む場合がある。山本浩喜さんの場合は2度あった。一度めは中央大学法学部の3年生のとき。
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ゼミ合宿で先生から「君はおもしろいところがある。弁護士を何人でも雇う人になれるから、弁護士ではなく、使う側になったほうがいい」。2度めは31歳のとき。たまたま入った焼き鳥屋の親父の言葉だった。
「今の仕事は飲食プロデューサー。海外での日本食ブームで依頼が多く、1年の半分は日本を離れています。業態を決めるところから、店のデザイン、メニュー、レシピまで。店名を考え、ロゴのデザインもします。
弁護士になる夢を捨ててからは、経営に興味を持ちました。大学4年生のときに知り合った1歳上の会社社長と、これからはITの時代で携帯電話が普及すると考え、その関係の会社を作りました」
当時、携帯を開発していたのは、NECほぼ一社。その子会社に半年間営業に通い、仕事を請け負うようになった。
東京で3年ほど、基板製作などを下請けに出す仕事をした。そしてNECが栃木県の西那須野に子会社を作った際に、山本さんの会社もその近くに工場を作った。
「25歳のとき、工場の責任者として赴任。七、八十人の従業員を雇って、生産管理から検品、財務など全部を見ました。小型携帯を作れるのはNECだけで、生産台数が驚くほど伸びていた。だからうちは常にキャパオーバー状態で、寝ずに働きました。
パートさんにも夜じゅう働いてもらい、ブラック企業よりひどかった。何社も下請けを作り、その開発もしていましたから、ストレスの塊状態。ノイローゼになり、体が参ってしまいました」
あるとき東京・田町のNEC本社に呼ばれ、欠品や不良品のことでさんざん?られた。帰りにストレス発散のために、駅近くの焼き鳥屋に入った。
「ひどくこげた焼き鳥が出てきて、親父さんに『これ、こげていません?』と言うと、『普通だよ、こげ目もうまいよ』。クレームをつけたのに、飲食ってむちゃくちゃファジーだなと思った。
こっちは、ちょっとした不良品を出しただけで、苦労してきたのに……。これでいいなら、焼き鳥屋をやろう! そのときに決めました」
31歳で会社を辞めた。西那須野に買った家が売れずに、借金が残った。岐阜県関市の実家に帰り、家でタレ作りや、炭を買って焼き鳥の研究をした。
そして、資金がないので愛知県一宮市の駐車場に2坪のスペースを借り、自ら大工作業をして屋台のような店を作った。焼き鳥、お好み焼き、焼きそばなど、持ち帰り品を売った。料理はすべて我流。
「半年後、岐阜駅前の玉宮町に焼き鳥専門店、『総本家扇屋』を出しました。呉服街の角地の6坪。家賃がすごく安かった。それが、客が行列する繁盛店になりました。
それで、新岐阜駅前の閉じたままの食堂に、二十数回通って貸してもらい、2号店を作った。25坪ほどの広さ。よく売れて、1本80円の焼き鳥で、月に1200万円ぐらい売り上げました」
その後は破竹の勢い。本格的にFCビジネスを始め、5年ほどで100店舗になった。以降は回転寿司、海鮮市場など多様な業態を手がけた。しかし、総本家扇屋は280店舗になった2004年にすべて売却。
その後「紅とん」をヒットさせたが、それも2007年に20店舗すべてを売却。それからは、ベトナム・ホーチミンのフードコート・Tokyo Townをはじめ、国の内外で数多くの店のプロデュースをしてきた。
「来年は英国のオックスフォードへ行きます。尊敬する日本人の方がいて、店を出したいというので、そのお手伝いに。できればその方のように現地に住み、娘を小学校に入れようかと。
まだ2歳ですが、英語幼稚園に入れています。今後はヨーロッパの仕事が増えそうですし……」
ところで、山本さんには2・6・2の原則があり、不思議にもすべてがそのとおりになるという。たとえば10年の期間で考えると、2年は最高、6年はまあまあで馬鹿もやる、2年はやめておけばよかったと後悔する。
仕事の結果も同じ割合だそうだが、思い当たる節はないだろうか?
(週刊FLASH 2018年11月6日号)