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競輪からうどん屋へ「答えの出ない世界」に転職して思うこと

ライフ・マネー 投稿日:2018.11.29 06:00FLASH編集部

競輪からうどん屋へ「答えの出ない世界」に転職して思うこと

 

 一般に、プロスポーツ選手のセカンドキャリアは難しいといわれる。有名選手ならともかく、ほとんどの選手は引退した時点で、積み上げたキャリアがゼロになる。学歴や資格がないとなれば、就職先も限られる。

 

 小林正治さんは、競輪の最高クラスであるS級1班の選手だったが、いまはうどん店チェーン企業のオーナーであり、ほかのプロスポーツ選手の「第2の人生」の受け入れに尽力している。

 

 

「大学3年生まで、国際A級ライセンスを持つ、モトクロスというオートバイ競技のプロ選手でした。

 

 21歳のときに、父親の知り合いの息子で競輪選手の方が、トレーニング用の自転車をくれるというので、もらいに行きました。その方は26歳でしたが、すでに1億円ぐらい稼いでいて、競輪は退職金も出れば年金もあるというので、魅力を感じました。

 

 競輪選手になるためには、競輪学校で1年間学ぶ必要があり、入学試験はタイムレース。約3000人の受験者から、タイム順に60名ぐらいが合格するとの話でした。どうせ頑張るなら、気持ちも体も燃えるものに挑戦したい、と強く思いました」

 

 同じ日、通っていたジムに行き、競輪選手の練習法を聞くと、3本ローラーというバランスを取りながらペダルをこぐ練習機器に、よく乗っているとのこと。

 

 ためしに乗ったところ、全然ぶれなかった。「競輪選手になりたいのか? すごいなお前、一流になれるぞ!」と後ろから声をかけられた。

 

「のちに師匠となる高橋洋一選手でした。競輪選手で大切なのはバランス感覚で、バランスを取りながら自転車の上で、全力で駆け足できる状態がいちばんいいといわれます。

 

 本当にその日一日で、すべてが変わりました。これはもう運命だなと思いました」

 

 競輪選手になるためには、まず現役選手である師匠に弟子入りをする。例外もあるが、競輪は相撲界と似ていて師弟関係の世界である。

 

 師・高橋洋一選手のもとで練習を始め、わずか1カ月半ほどで試験合格のタイムが出るようになった。天才かもしれないといわれ、22歳で競輪学校に入学。

 

 学校の成績は86勝で、全生徒中1位。卒業記念レースも優勝した。1996年、23歳でデビューすると、破竹の11連勝。先行まくりを得意とし、選手生活15年間で通算185勝を挙げた。

 

「仕掛けどころとか、野性の勘みたいなものを持っていた。競輪は、要は選手の騙し合い。いかに不意打ちをするか、自分の勝ちパターンを作れるか、センスがものをいいます。でも、身体的にポテンシャルが高くなければ勝てません。

 

 37歳のとき、レース中に顔面から落ちた。3日間意識がなかった。それまでは落車をしても、怖さを感じなかった。でも事故以降気持ちが切れてしまい、怖さを感じるようになった」

 

 1997年、デビュー以来長く維持し続けてきたS級1班から2班へランクが落ちた。常に格好よくいたいという思いが強く、38歳で引退した。

 

 30歳のとき、ステータスのひとつとして、また将来のためにと、当時としては珍しかったつけ汁で食べるうどん店「めんこや」を始めた。

 

 二足のわらじを履いたわけではなく、仕事は人にまかせた。しかし、引退後は店のすべてを自ら仕切ることになった。うどん作りの修業もした。

 

「学んだことは簡単ともいえるのですが、答えが出ない。競輪の世界だと相手に勝てばそれが答えになりますが、味の世界はどれもが正解で、その深さは半端じゃない。それはいまも同じで、自分なりの正解を求めています。

 

 ただ、お袋の味がおいしいのは、子供においしいものを食べさせたいという魂が入っているから。そこにおいしさの秘密があるのではと考えています」

 

 現在は5店を経営する。元プロ選手のスタッフもともに働く。

 

「常にキラキラしていたい。すごい男になりたいという願望がある。アイツ頑張っているから、よしオレも、と思ってもらえる存在になりたい」

 

 夢は株式市場への上場。いつかきっと、夢をかなえる得意のまくりが見られるはずだ。

 

(週刊FLASH 2018年12月4日号)

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