レトロだけど斬新……光岡自動車のデザインはオンリーワンだ。我が道を行きながらも50年間走り続けられたのは、創業者である、現会長の挑戦スピリットが息づいているからに違いない。
「開発部隊は、解散してもらいます」
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1985年11月20日。臨時役員会の席で、光岡進社長(現会長)は、妻で副社長の幸子夫人に、こう告げられた。光岡自動車は、創業以来、最大の危機を迎えていた。
「開発を続けるなら社長を交代してもらうと。おっかちゃん(妻)は、月500万円、年間6000万円までの赤字は許してくれとった。ところがこの年、11月の時点で8500万円を超えとった。
これだけ欠損すると、中古車販売業にも影響が出る。次こそは当たる、と信じて続けてきたが、諦めるしかなかった。
工場に四十数名の社員を集めて、『閉鎖するので、希望者は配置転換させてもらう』と説明して解散。それからしばらくは本社の社長室で、新聞を読むだけの生活やった」(進会長)
1985年、原付免許で運転可能な光岡製「ゼロハンカー」が深刻な販売不振に陥っていた。同年2月、道路交通法施行規則が改正され、ゼロハンカーの運転には普通自動車免許が必要になり、50ccユーザーが離れてしまったのだ。
開発部を失い、失意のどん底にいた社長を救ったのは、副社長の言葉だった。
「『世界中どこでも行ってきたらいい。あんた、仏さんの顔になっとるから商売にならん』と。そんで、弟(章夫・現社長)を頼ってアメリカに行った。
ほったら、ロスでクラシックなキットカーに乗っとる人を見つけて。『どこで買うた? 販売店は?』って。その日の夜にキットカーを買った。3カ月くらいで届いて、組み上げた。これは売れると思った」(進会長)
こうして生まれたのが、1920年代のベンツSSKのレプリカ車「BUBUクラシックSSK」。1987年7月に発表し、4日間で200台の予約が入る大ヒットとなった。光岡自動車は息を吹き返し、その後、続々とオリジナルカーを発売していく。