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家業は養豚の無番地育ち「孫正義」がソフトバンクを創るまで

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.02.05 11:00 最終更新日:2019.02.05 11:00

家業は養豚の無番地育ち「孫正義」がソフトバンクを創るまで

米国留学中にヨセミテ国立公園にて

 

「起業」なんて多くの人には無関係だった時代から、自力で成功への道を切り開いてきた孫正義氏。出身地・佐賀で極貧の幼少時代を過ごし、差別を経験してアメリカへ……。発掘写真とともに、そのバイタリティの軌跡を紐解く。

 

「孫さんには、リスクを恐れず『なんとしてものし上がろう』という気迫があります。その原点に、生まれ育った環境がある気がします」(経済評論家の加谷珪一氏)

 

 

 佐賀県鳥栖市五軒道路無番地。孫正義氏は1957年8月、当時の国鉄鳥栖駅構内にあった「無番地」に、在日韓国人3世として生まれ、その後、日本国籍を取得した。

 

「鉄道作業員として集められた朝鮮の人たちが戦後、バラックを建てて暮らしはじめ、そのまま国鉄の敷地内に住み着いとったとです」(地元住民)

 

 孫家は当時、養豚などで生計を立てていた。一家が北九州市八幡西区に移り住むと、父親は消費者金融とパチンコ店の経営に成功し、生活も軌道に乗る。

 

中学時代


 その後、一家は福岡市に転居、正義少年は市内の中学校に転校した。中学3年時の担任・河東俊瑞氏は、卒業後の正義少年に、強い印象を受けた。

 

「『塾を経営したいんですが、先生、責任者になってください』と相談されたんです。大真面目で、カリキュラムまで作ってきました。でも、まだ15歳の少年に事業の相談をされても、答えようがない。『ちょっと待て』と言うたら、ようやくあきらめました」

 

 思い立ったらすぐ実行に移す決断力と行動力は「経営者・孫正義」につながる。

 

 高校は、進学校として知られる久留米大学附設高校へ。だが、夏休みに両親の母国である韓国を旅行し、その後、米国への2週間の短期留学を経験する。そして帰国後、学校をやめたいと言いだしたのだ。担任だった阿部逸郎氏が当時を振り返る。

 

「彼は『自分は韓国籍だから、日本では認めてもらえない。アメリカで結果を出せば、日本人は評価してくれる』と言っていました。引き留めることはできませんでした」

 

米国留学から一時帰国中に

 

 カリフォルニア大学に在学中、自動翻訳機を発明して、シャープと1億円のライセンス契約を結ぶ。その資金を元手に1981年、24歳でパソコンソフトの流通卸会社の「日本ソフトバンク」を設立した。

 

「当時、アルバイトの店員が2人しかいないころから、孫さんはまるで豆腐を数えるように『将来は1兆、2兆の会社を作る』と言っていたそうです。とにかくスケールの大きい事業をしたい。彼の事業をとしての原点は、そこにあると思いますね」(加谷氏)

 

 いまやソフトバンクグループ(SBG)は連結売上高が9兆円超、営業利益1兆円超という巨大企業集団となった。そして……。

 

「2010年、創業30年めのときに、孫さんは『ソフトバンクは30年後、時価総額200兆円で世界のトップ10の企業になる』と大風呂敷を広げました。

 

 彼は『GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)』に本気で対抗しようとしている、唯一の日本人経営者ですよ」(かつてソフトバンクで社長室長を務めた嶋聡氏)


(週刊FLASH 2019年2月12日号)

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