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『まんぷく』安藤百福の即席麺「発明は嘘」と異論噴出

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.05 16:00 最終更新日:2019.03.05 16:00

『まんぷく』安藤百福の即席麺「発明は嘘」と異論噴出

張氏と安藤氏が交わした契約書

 

 連日、視聴率20パーセントを超えるNHK朝の連続テレビ小説『まんぷく』。主人公の福子(安藤サクラ)と、「まんぷくラーメン」を発明した夫・萬平(長谷川博己)の物語だ。言うまでもなく、モデルは、日清食品創業者の安藤百福氏(1910~2007)と、その妻・仁子さんの成功談である。

 

 安藤氏の自伝『魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞出版社)などによると、安藤氏は1957年、経営していた信用組合の破綻で無一文になった。そこで自宅に研究小屋を建て、即席麺の開発に打ち込む。

 

 

 苦心するなか、妻が天ぷらを揚げる姿にインスピレーションを受け、油で揚げる「瞬間油熱乾燥法」にたどりついた。これが安藤氏の言う「発明」だ。『まんぷく』も、このストーリーをなぞっている。

 

 だが、これに疑問を呈するのは、日本と台湾の関わりについて長年取材している、ジャーナリストの野嶋剛氏だ。

 

『まんぷく』ではふれられていないが、安藤氏が生まれ育ったのは、日本統治下の台湾である。前出の自伝にも、当時の思い出が書かれている。

 

「安藤氏は、20歳前後までを台湾で過ごしています。じつは台湾南部には、戦前から揚げ麺を食べる文化があった。いちばんチキンラーメンに味が似ているのは、台湾南部で食べられている意麺(イーメン)。

 

 さらに、1946年に創業した『清記氷果店』は、極細の麺を揚げ、スープに鶏のダシを使う鶏糸麺(ケーシーメン)の本家といわれました」(野嶋氏)

 

 安藤氏は1958年に、油で麺を揚げたチキンラーメンを日本で商品化する。だがそれ以前から、故郷・台湾の人は麺を揚げ、チキンのスープで食べていたのだ。鶏糸麺は台湾全土で人気となった。

 

「戦後の食糧難だった日本にも輸入されました。これは、多くの在日華僑が証言しています。1950年代の日本で、台湾出身者が複数、即席麺を売り出したのは、偶然ではないのです」(同前)

 

 その1人が、張國文氏だ。1917年に台湾で生まれ、歯科技工士として日本に渡った張氏は、戦後、大阪・阿倍野で中華料理店を経営しながら、即席麺「長寿麺」を作り上げた。張氏の会社である「東明商行」が「長寿麺」を発売したのは1958年の春のこと。

 

 日清食品の社史『食足世平』によると、同社(当時はサンシー殖産)が「チキンラーメン」を発売したのは、同じ1958年の8月だ。チキンラーメンに先駆けて商品化された「長寿麺」とはどのようなものだったのか。

 

 張氏の次男で、いまは不動産会社となった「東明」の代表を務める、清川信治氏(73)が証言する。

 

「安藤さんが即席麺を発明した、というのは、ファンタジーですわ。勝てば官軍。歴史は勝った者が作るものなんでしょうけど。大阪の華僑はみな私に『あんたのとこが先』と言ってくれはるわ」

 

 1945年生まれの清川氏が小学生のころ、父が蓋をしたラーメンの丼を持ってきて、「5分待ちや」と誇らしげに語った記憶がある。のちに改良され、3分で食べられるようになった即席麺、それが長寿麺だった。

 

「初めて食べた即席麺。『おいしいもんやな。こんなものあるんや』と思ったわ。

 

 親父は登山が好きでね。私が小学校のとき、一緒に奈良の大峰山に登ったことがある。テントを張って、お湯をかけた即席麺を『食べや』とすすめられた。いまから考えると試作品だったんでしょう」(清川氏、以下同)

 

「長寿麺」は、1950年代に始まった、初期の南極観測隊でも採用されている。

 

「長寿麺がえらく喜ばれて、観測隊の永田隊長から、おみやげに南極の石をいただいた。引っ越したときに、どこかに行ってしまったけど(笑)」

 

 清川氏が言う永田隊長とは、第一次(1956年~)から第三次(1958年~)の南極観測隊で隊長を務めた、永田武氏と思われる。1959年秋発売の雑誌『アサヒグラフ臨増』には、「ヒマラヤ遠征隊 南極越冬隊御採用」と書かれた「長寿麺」の広告が掲載されている。

 

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