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日本の聖地を行く/靖国神社、幻のアミューズメント構想

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.15 16:00 最終更新日:2019.03.15 16:00

日本の聖地を行く/靖国神社、幻のアミューズメント構想

 

 日本の各地には数多くの聖地が存在している。近年では「パワー・スポット」ということばが生まれ、若い人たちを中心に関心を集めているが、パワー・スポットの多くは従来なら「聖地」と呼ばれていた。
 そんな日本の聖地を、宗教学者の島田裕巳が旅をする。

 

 

 靖国神社は、英霊や遺族にとっての聖地であることはもちろんのことだが、他の人間にとっては、別の意味をもつ聖地である。

 

 

 7月13日から16日までのあいだ、靖国神社では「みたままつり」というお祭りが開かれる。それはちょうど新暦の盆の期間に相当している。「みたま」ということばも、英霊を意味すると同時に、盆の行事において供養の対象となる先祖の霊や、祀る者の定まっていない精霊を意味している。

 

 このみたままつりがはじまったのは戦後のことで、終戦から2年が経とうとしていた昭和22(1947)年に第1回が催された。

 

 この当時、日本は連合国による占領下にあり、戦争との結びつきの強い靖国神社のイメージを変えるために、平和の祭典としてみたままつりが行われるようになった。

 

 私は、2010年7月15日のみたままつりを訪れて、予想していなかった光景がくり広げられているのに驚いた。地下鉄の九段下の駅に降り立つと、そこにはおびただしい数の若者たちの姿があった。しかも、年齢は20歳前後が多く、10代が大半を占めているようにも見えた。

 

 家族連れもいないわけではないが、決してその数は多くない。いても、幼児をかかえた家族で、中年や年配者の数は少ない。参道の後ろ側には、お化け屋敷や見せ物小屋があるが、そこにつめかけているのも若者ばかりで、とくに10代の女性たちがほとんどである。彼女たちは、お化けの出現に叫声を上げていた。

 

 みたままつりには毎年30万人の参拝者があると言われるが、平均年齢は相当に低い。まさにそれは「ギャルの祭典」である。いったいいつからそのような状況になったのかはわからないが、彼女たちのお目当ては広い参道に建ち並ぶ夜店の数々である。みたままつりが開始された当初、今日のような姿になるとは予想されていなかったことであろう。

 

 だが、靖国神社の立地を考えれば、こうした事態が生まれるのも必然的なことである。東京都内には数多くの神社があるが、山手線内には、これほど規模の大きな神社はほかにない。明治神宮のほうが境内地ははるかに広いが、神殿のある内苑は山手線の外側にある。

 

 しかも、靖国神社ほど幅の広いまっすぐな参道をもつ神社は珍しい。夜店を建てるには、絶好の場所である(2015年からみたままつりを含め、靖国神社では夜店がいっさい禁止となり、こうした光景はなくなった。しかし、宮司の交代によって2017年から夜店は復活した)。

 

 実は、靖国神社の歴史を振り返ってみると、その創建当初から、靖国神社は、英霊を祀る神社とは別の役割を果たしており、それは今日の姿にも通じている。

 

 靖国神社の前身である東京招魂社が創建されるのは、明治2年のことだが、注目されるのは、明治4年から競馬が行われた点である。主催は陸軍軍馬局であり、靖国神社の例大祭のたびごとに行われ、「九段競馬」、あるいは「九段馬かけ」と呼ばれた。この競馬の情景を描いた錦絵や木版画が残されているが、そこには多くの人がつめかけていた。これは明治31年まで続く。

 

 この競馬が中止されて以降にも、靖国神社では、多くの人を集める大イベントが催された。

 

 明治39年5月2日からは、日露戦争での勝利を祝って臨時の大祭が4日間にわたって開かれる。その前日の1日には、日露戦争の戦没者2万9960名の戦没者を合祀する招魂式が行われ、6日は例大祭にあたっていた。

 

 この1週間近い大イベントにおいては、たんに神道式の儀式が行われただけではなく、参道の途中には直径30m、高さ30mの半円形をした「地球型大緑門」が建てられたほか、いくつかのモニュメントが作られ、戦利品の展示なども行われた。

 

 さらに、奉納相撲が行われたり、花火が打ち上げられたりしたため、おびただしい数の人たちが訪れた。もちろん、このイベントの性格上、戦争との関係は密接だが、靖国神社は、その立地条件も生かして、高い集客力を示した。

 

 それを反映し、靖国神社では大相撲の本場所が開かれたこともあった。両国に国技館が開設される前や、大正時代に国技館が焼失したときにおいてである。常設の相撲場を作る計画もあったようだが、それは実現しなかった。

 

 戦後になると、奉納プロレスも開催されるようになる。ちょうどそれは力道山の全盛時代にあたっていた。当時の力道山の人気は高く、昭和36年には1万5000人の観客がつめかけた。この奉納プロレスは現在でも続けられている。

 

 実は、戦後間もない昭和21年の時点では、靖国神社を一大アミューズメント・パークにしようという計画さえあった。境内に音楽堂や美術館、博物館、映画館、マーケット、能楽堂などを作ろうというものである。そうした施設の従業員は戦没者の遺族から選び、純益は神社の維持費に充当させる計画だった。

 

 そこには、敗戦によって戦前の体制が崩れ、靖国神社の存続が危機に瀕していたという事情があった。靖国神社は侵略戦争を行った日本軍の関連施設であり、戦意昂揚のために積極的に活用された。したがって、靖国神社を解体すべきだという声が上がっていた。アミューズメント・パークにしようという計画は、そうした状況を踏まえてのものだった。

 

 この計画は実現されなかったわけだが、もし実施に移されていたら、その立地や集客力の高さから、かなりの成功をおさめていた可能性が考えられる。実際、みたままつりの光景から考えれば、戦後の靖国神社はひそかにその方向にむかって動いていたとも言える。

 

 

 以上、島田裕巳氏の近刊『日本の8大聖地』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。日本の聖地の知られざる謎に迫ります。

 

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