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日本の聖地を行く/古代の「出雲大社」高さは100mあった?ライフ・マネー 投稿日:2019.03.19 16:00

日本の聖地を行く/古代の「出雲大社」高さは100mあった?

 

 日本の各地には数多くの聖地が存在している。近年では「パワー・スポット」ということばが生まれ、若い人たちを中心に関心を集めているが、パワー・スポットの多くは従来なら「聖地」と呼ばれていた。


 そんな日本の聖地を、宗教学者の島田裕巳が旅をする。

 

 

 出雲大社の本殿の屋根は相当に大きく、面積はおよそ180坪にもなる。屋根の厚さは約1mあり、そこに葺かれた檜皮は60万枚に及んでいる。

 

 

 平成22年の夏、この大屋根の見学会が特別拝観という形で行われた。高さ12mのところの工事用足場に見学コースが設けられ、大屋根を間近に見ることができた。実際に接してみると、屋根の巨大さがよくわかる。

 

 現在の建物は延享元(1744)年に建てられたもので、江戸時代の建築物になるわけだが、神社建築としては並外れて大きい。

 

 出雲大社は巨大な神殿であり、高さは8丈、およそ24mにも及ぶ。しかも、中古の時代においては、本殿の高さは16丈(48m)で、上古には32丈(96m)にも及んでいたという言い伝えがある。100m近い高さの神社など想像することさえ難しい。

 

 それは途方もない空想にしか思えないが、現在ではむしろ、かつての出雲大社は地上から仰ぎ見るような壮大な建築物だったという説が唱えられ、それが信憑性のあるものとして受け取られているのである。

 

 明治41(1908)年から42年にかけて、建築家で建築史家の伊東忠太と、歴史学者で神道学者の山本信哉とのあいだで出雲大社の高さについて論争がもちあがった。

 

 その際に山本は16丈説を唱え、その根拠として持ち出してきたのが『口遊』という書物だった。これは、平安時代初期の学者、源為憲が記したもので、天禄元(970)年という年号が記されている。これは子どものための教科書のようなもので、算数の九九が最初に記された書物でもある。

 

 その『口遊』には、建物について当時のベスト3があげられており、「雲太、和二、京三」と記されている。和二とは大和の国・東大寺の大仏殿で、京三とは大極殿。そして、雲太が出雲大社だ。当時の大仏殿の高さが15丈(46m)だから、出雲大社はそれよりも高かったことになる。

 

 この比較がどれほど正確なものなのかわからない。源為憲が実際に現地にいったかどうかもわからない。ほかに出雲大社の高さを示すはっきりとした史料があるわけではない。だが、もしそれが事実に近いとすれば、平安時代の出雲大社は16丈、つまりは50m近い高さを誇っていたことになる。

 

 16丈説、さらには32丈説を裏づけるとされるものが、国学者の本居宣長がその著書『玉勝間』に掲載した「金輪造営図」という図面である。宣長は、「出雲大社、神殿の高さ、上古は三十二丈あり。中古には十六丈あり」と記している。

 

 この図を見ると、3本の材木を金輪で縛って1本の柱とし、その直径は1丈、3mに及ぶ。それを縦横等間隔に9本立て、その上に本殿が載るようになっている。しかも、本殿に登るための引橋は一町とされているから、100mを超えていたことになる。

 

 残念ながら、「金輪造営図」は平面図で、本殿がどういった形をしていたかも、どのくらいの高さだったかもわからない。しかし、引橋が100mを超えているなら、本殿はかなり高いところに位置していたものと想定される。

 

 柱は直径が3mにもなるわけで、かなり大きな建物を支えていた可能性が考えられる。果たしてそれほど大きな柱が用いられていたのか。宣長ならずとも疑問に感じるところだが、平成12年から13年にかけて、出雲大社境内の遺跡から、杉の大木3本を組んだ直径およそ3mにもなる巨大な柱が3ヵ所で発見されている。

 

 これは、鎌倉時代の前半にあたる宝治2(1248)年に造営された本殿を支えていた柱ではないかと推測されている。

 

 戦前の昭和11年のことだが、建築学者の福山敏男は、16丈の出雲大社本殿の復元図を作成している。100mを超える長い引橋をあがった上に、9本の巨大な柱に支えられた社殿が載っている形の図である。

 

 これをもとに、建築大手の大林組がプロジェクト・チームを組み、その復元のシミュレーションを試みたこともあった。

 

 ただ、それだけの高さがあったとすれば、社殿は相当に不安定な状態にあったはずである。それを裏づけるかのように、『百錬抄』という書物には、長元4(1031)年8月に神殿が転倒したと記録されている。風もないのに神社が振動し、「材木は一向に中より倒れ伏す、ただ乾の角の一本は倒れず」だったという。

 

 さらに、これ以降、出雲大社の国造である千家家や北島家の『千家家古文書』や『北島家文書』などには、「社殿転倒」「出雲大社鳴動」「社殿が傾き転倒せんとす」といった記述が見られる。平安時代中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒れたことになる。30年に一度の倒壊である。

 

 出雲大社の本殿がかなり高い建物だったことは事実だろう。だからこそ、いくたびも転倒したと考えることはできる。ただ、『百錬抄』の記述からすると、基礎もしっかりしていない掘っ立て柱が立ち並び、その上に社殿が載せられているような状態だったのではないだろうか。

 

 大林組は、平安中期の技術を用いた場合、どれだけの工期と人員、そして費用で、48mの高さの本殿ができるかを計算している。

 

 それによれば、総工期は6ヵ年で、工事に動員される総延べ人員は12万6700人、総工費は121億8600万円と見積もられている。この額は一般的な大型ビルの建築費に相当する。

 

 最近の学界の議論では、16丈の高さがあったことがほぼ前提にされてしまっている。かつての出雲大社が高ければ高いほど、その価値は高まる。逆に16丈説を否定しても、誰からも歓迎されない。考古学の復元の作業では、どの遺跡でも、やたら大型の建物が存在したかのような方向にむかいやすい。

 

 そもそも現在の8丈、24mでも、神社建築としては破格の高さである。その点にかんして興味深いのが国立公文書館所蔵の「出雲大社絵図」である。

 

 これは明治8(1875)年ごろに作成されたとされている。現在の神殿が江戸時代の延享元(1744)年の造営によるものだとすれば、今と同じ建物を描いたもののはずである。

 

 ところが、中間の床は現在よりもかなり高いところに設置されているように見える。高さが今と同じなら、描き方に問題があることになる。出雲大社のあまりの壮大さが、見る者の視線を歪ませたのかもしれない。

 

 

 以上、島田裕巳氏の近刊『日本の8大聖地』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。日本の聖地の知られざる謎に迫ります。

 

●『日本の8大聖地』詳細はこちら

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