そもそも、最初に駒に手をふれたきっかけは、父親である作家・遠藤周作氏の手ほどきであった。
「小学校1、2年生ぐらいのときに教わったと思います。父はそんなに強くなかったので、すぐに抜いちゃいました(笑)。
晩年の父は囲碁のほうが好きで、一緒に打ちました。父は囲碁も弱くて、井目(九子を先に置くハンディキャップ)でやっても、僕が勝ってしまう。
そんなときに母親が僕を呼んで『ちょっとは負けてあげなさい』と言ったのを父が聞き咎めて、『よけいなことを言うな!』と夫婦喧嘩になったこともありました(笑)」
遠藤周作は、キリスト教を主題にした著作でも知られる大作家だ。1955年に芥川賞を受賞、1996年に亡くなるまでの約40年間で、『海と毒薬』『深い河』など、多くの作品を残した。
「父はおどけて話すときと、シリアスに話すときのモードがあって、それを正確に嗅ぎ分けないと、機嫌が悪くなる。
物書きは毎日、家にいますし、締切りが迫ると、土日でも、『うーんうーん』と唸っている。家族はそれに対応しないといけないので、気は遣いました。
以前、阿川(佐和子)さんとお話ししたときに、同じような経験があると。小さいころ、襖一枚隔てた部屋で、阿川弘之先生が執筆なさっているので、無言でトランプをやっていた。すると突然、襖がガラッと開いて『静かにしている気配がうるさい! 出て行け!』と言われたそうです(笑)。
僕もそういう経験はたくさんあります。あるとき、父が『キャッチボールをしてやる』と言うので、嬉しくて半ズボンにグローブとボールを持って、喜び勇んで公園に行ったんですね。
ところが、キャッチボールはわずか10分。タクシーを呼んで、銀座に連れていかれると、隣には着物を着たきれいなお姉さん。今で言う『同伴』ですね」
数多い父との思い出のなかでも、遠藤社長が心に残っているのが、フジテレビに就職が決まったと報告したときの会話だという。
「普通は『頑張れよ』とか『辛いことがあってもくじけるな』とか言うじゃないですか。ですが父は、応接間から一望できる丹沢連峰を眺めながら『先週、母さんと湘南に行ってきたんだよ。海辺のレストランを予約したから、砂浜を歩いていこうと思ったんだが、足元を取られて疲れるな。途中から舗装道路で行ったら、すぐに着いた』と言うんです。
『なんですか? それは』と聞くと、『お前もバカだな。俺は自由業で、ひとりでやってきた。歩くのはしんどかったが、砂浜の道を歩いてきたから、振り返ると足跡が見えた。でも、お前はサラリーマンで楽な舗装道路を歩くから、20年、30年たって振り返っても、足跡は残ってないぞ』と。
『なんでそういうことを言うかな……』って思いましたね。それから約1年後、年始の挨拶に行くと『どうだ、舗装道路の歩き心地は?』と父が聞いてきたので、用意していた答えを言いましたよ。『お父様が吸われたことのない、排気ガスを吸っています』と。
父はニヤッと笑っていましたね。あれから40年、私の肺の中は真っ黒ですよ(笑)」
父との思い出が色褪せないように、魅力あるコンテンツは色褪せず、力を発揮し続けるという。
「『Dr.コトー診療所』というドラマの再放送が、高視聴率を獲得しました。この数字を見て、ファーストランで魅力あるコンテンツは、力が残っているんだと確信しました。
いまは、動画配信もあるし、見逃し無料サービスもある。そういう『出口』というか『デバイス』とかが、どんなにたくさんあっても、肝心のコンテンツがおもしろくないと訴求できません。
アナログですが、作っている側がコンテンツに、本当におもしろさを感じてやっているかということが、生命線だと思います」
えんどうりゅうのすけ
1956年6月3日生まれ 東京都出身 1981年、慶應義塾大学文学部卒業後、フジテレビ入社。2001年、編成制作局編成部長。広報部長、広報局長を経て、2007年、取締役に。常務、専務を経て社長に就任
(週刊FLASH 2019年7月16日号)