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名経営者は「焼け跡」で何をしたのか/ホンダ
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.08.18 06:00 最終更新日:2019.08.18 06:00
終戦を迎えたとき、本田宗一郎(当時38)は浜松の東海精機重工業の専務だった。
浜松は空襲と艦砲射撃で焼け野原になっていた。戦火を生き延びたのは、駅前の3本の木だけだったといわれている。そんな状態で、東海精機はトヨタに売却される。本田は「人間休業」と称して1年間の休養に入った。
「本田宗一郎は、合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作ったり、さまざまなことにチャレンジしていました」(経営評論家)
1946年、浜松で本田技術研究所を開設。このころ、旧陸軍の無線用発電機を手に入れ、改造したエンジンを自転車に取りつけたのが、ホンダのオートバイの原型となった。
「走るときの音から『バタバタ』と呼ばれていた。買い出しのときにこれに乗っていたのが、さち夫人ですが、彼女が最初のテストドライバーということになります」(前出・経営評論家)
1948年9月、41歳で浜松に本田技研工業を設立する。ホンダの歴史は資本金100万円、従業員20名の町工場から始まった。1949年、初の自社設計エンジンを搭載したドリーム号D型の生産が始まる。
1950年、東京・京橋に営業所を開設した。そして1952年、自転車用エンジンを搭載したカブF型を発売、これが世界的ベストセラーとなった。ここから本田の挑戦が本格的に始まる。
本田の「不可能という言葉はあり得ない」「常識を破る。そのことでしか会社の永続はない」「絶対に模倣はしない、どんなに苦しくても自分たちの手でやる」という言葉こそ、いまに続くホンダ・スピリッツなのだ。