マンガ雑誌『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)で、1999年から今も連載が続く、“老舗” の寿司漫画『江戸前の旬』。寿司の具である “タネ” のエピソードを中心に、すでに100巻が発売されている。原作者の九十九森先生が、「寿司ウンチク」を存分に語ってくれた。
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「最近ブームになっていますが、タネを寝かせる『熟成寿司』って、じつは昔からあるんです。江戸時代のもので、『白身は熟成させたほうがウマい』っていう文献が残っている。
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たとえば『コハダ』は、どの店でもずっと熟成なんですよ。コハダって、塩をふって酢で締めてから、最低3日は置く。そうしないと、酸っぱくて食べられたものじゃないからです」
日本で始まった食文化だと思われている寿司だが、その出自は意外なものだった。
「じつは、中国から伝わったものが始まり。ドジョウに塩ふって熟成させたものが伝わってきて、それが “お寿司の原点” だと言われているんです。
次に琵琶湖の『フナ寿司』ができて、それから川魚がメインになっていきます。で、そのあと関西の『押し寿司』になって、江戸にきた」
江戸に来てからも、すぐ「にぎり寿司」にはならなかった。
「神田の『毛抜鮓』というお店で、関西の押し寿司とにぎり寿司の中間にあたる、笹の葉で巻いたお寿司が出されていて。そのあとようやく、お酢を使った、にぎり寿司になったんです。
ちなみに同店はいまも、『笹巻けぬきすし総本店』という店名で営業していますが、いまだに伝統的な仕事で……タネがめちゃめちゃ酸っぱいんですよ(笑)。昔のお寿司を食べたいなら、おすすめです。
それまでお酢といえば、米で作った『米酢』。ものすごく高くて、普通の人は使えなかった。ところが、いまのミツカンの創業者が、もともと酒屋だったのをやめて、酒粕からお酢を作ったんですよ。それが『粕酢』といって、赤かった。だから昔の江戸前は『赤シャリ』と言われたんです」
粕酢が普及してようやく、にぎり寿司ができた。
「最初のにぎり寿司は、落語などの伝統芸能に出てくる、おにぎりサイズのものでした。屋台でサッと食べるものは、『早(はや)ずし』とも呼ばれていた。
業態としては、屋台で出すところと、店を構えているところのどちらもありました。出される寿司に違いはないんですが、お店のほうは高価だったようです。幕府に『過度なぜいたくはしてはいけない』と目をかけられて、潰された店もあった」
江戸前のにぎり寿司店の元祖は、初代の「與兵衛(与兵衛)寿司」だといわれている。
「店主の與兵衛さんは長野出身の、もともと関西寿司を売っていた人で、『にぎり寿司の考案者』とされている。ちなみに、與兵衛のお寿司は甘かったそうですよ。当時は貴重だったから、砂糖を使っていたかどうかはわからないんですが。
與兵衛寿司のあとに、深川の『松が鮨』が高級寿司を出し始めたそうです。『松が鮨』では、にぎり寿司と関西ずし(サバの棒ずし、押し寿司)の詰め合わせを出していて、それが1人前3両、現在の30万円だった。
お寿司は辛めだったそうで、わさびを入れ始めたのも、松が鮨。サバの臭みを消すために、入れ始めたそうです……まあ、諸説あるんですが」
出すものが同じなのに、屋台スタイルと店舗スタイルで、なぜ値段が違っていたのだろうか。
「高級店では、贈り物用の寿司のシャリに “当たりくじ” として金貨をいれたりしていて、それが喜ばれていたそうです。
そうした高級化は進む一方で、毎日かならず店の終わりに店裏の水路に、当時は高価だったシャリをわざと捨てるところもあったといいます。『うちは古い米は使わない』っていうのを見せるために、ですよ。『ご飯がなくなった日は、わざわざ新たに炊いて捨てていた』という話も残っている。それぐらい、高いお寿司が人気を呼んでいたんです。
ですから店には、大きな商家の旦那連中といった、金持ちしか行けません。寿司店に行く文化が広まったきっかけは、置屋に手土産としてもっていくとか、持ち帰りで芸者と一緒に食べる、という用途でした。そのため、寿司が店内に積まれていたんですよ」