ライフ・マネー
【真田信繁と真田丸その1】家康の「裏切り」提案を即拒絶
ライフFLASH編集部
記事投稿日:2016.04.29 20:00 最終更新日:2016.04.29 20:00
●蟄居(ちっきょ)の身の信繁に与えられた「最後のチャンス」
真田信繁(幸村)が現代にまでその名を残し、ヒーローとして高い人気を誇っているのは、何といっても「大坂の役」における縦横無尽の活躍ぶりと、その鮮やかな最期に因(よ)るところが大きい。
関ヶ原の合戦と時を同じくして上田で徳川と敵対し、高野山麓で蟄居の身であった信繁のもとを豊臣家からの使者が訪れたのは1614年の秋。
このころ徳川との関係が急激に悪化していた豊臣家は戦(いくさ)に備えて多数の牢人衆を全国から呼び寄せていたのである。
父・昌幸はこの3年前すでに失意のうちに没しており、信繁自身も長年の窮乏生活のために歯は抜け落ち白髪も多く腰も曲がった状態で、大坂城の門番に山賊と間違えられたほどであったと伝えられる。
このとき信繁49歳。要請に応じた理由は報酬やかつての主に対する恩義だけではなかっただろう。このまま父と同じように朽ち果てていたかもしれない自分に、再び武将として取り立てるというチャンスを与えてくれたことに対する喜びに心を震わせたはずである。
かくして大坂入りした信繁であったが、見通しは明るくなかった。関ヶ原以降、日本は徳川一色。
大名たちの協力は得られなかったが、関ヶ原で仕官先を失い大坂城に結集した牢人はおよそ9万、豊臣の手勢と合わせて10万という大軍になった。対する徳川勢はそれをはるかに上回る19万4000。
●真田丸を築いて屍の山を築き家康の取引をきっぱりと拒否
豊臣勢がとったのは籠城という消極的な策だったが、信繁の智謀は冴え渡っていた。大坂城は周囲を川や堀などで強固に護られていたが、南側だけが空濠で手薄だった。ここに出丸を構築し、守備の要としたのである。これが後世に名高い「真田丸」だ。
そして同年11月末、「大坂冬の陣」が始まる。
真田丸には矢狭間、鉄砲狭間が設けられ、容易には攻められない。近づく敵は次々と出丸の高台から放たれる矢弾の餌食となった。
しかも信繁が「退屈しのぎにこの出丸を攻めてみられよ」などと盛んに敵を煽(あお)るものだから、カッとなって突入する者が続出、簡単に真田兵に討ち取られていったという。
また敵を油断させて出丸の奥までおびき寄せ、ぎりぎりまで引き付けてから一気に攻撃を仕掛けるという、父・昌幸仕込みの戦法を用いてわずかな時間で敵の屍(しかばね)の山を築くなど、数日の間にこの真田丸だけで数百あるいは1000人以上を討ち取ったというから、軍師信繁、恐るべしである。
この信繁の戦いぶりを知った家康はなんとか寝返らせようと画策、信繁の叔父にあたる真田信尹(のぶただ)を使者として送り込んだ。
10万石を与えると言っても、信繁は首を縦に振らない。次は信州一国を与えると伝えたが信繁は同意しない。「たとえこの国の半分をいただけるとしても気持ちは変わりません」がその答えだった。
が、いくら真田丸で戦果をあげても圧倒的な徳川優位は変わらない。この時点で信繁が豊臣の勝利を信じていたとは考えにくい。つまり信繁は死を覚悟のうえで、これ以上はないという申し出を断わっていたのである。
その後、和睦が成立し、冬の陣は終了。その条件として大坂城の濠はすべて埋め立てられ、真田丸も破壊された。これにより大坂城は裸同然となってしまった。そうして1615年4月末、「大坂夏の陣」が始まる――。
(その2に続きます)
(週刊FLASH 2009年5月12日号)