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【真田信繁と真田丸その2】父・昌幸のモラルなき生き残り戦略

ライフ 投稿日:2016.04.30 20:00FLASH編集部

【真田信繁と真田丸その2】父・昌幸のモラルなき生き残り戦略

写真:AFLO

 

 

●家康の首まであと僅か――壮絶に戦い、美しく散る

 

 濠が埋められた以上は、打って出るしかない。「大坂夏の陣」では激しい戦闘が繰り広げられたが、野戦の場合は数の多いほう、つまり徳川が圧倒的に有利。もともと寄せ集めの牢人集団である豊臣勢はみるみる戦力と戦意とを減らしていった。

 

 圧倒的な劣勢のなか、信繁は最後のチャンスにかけた。敵将の首、つまりは家康を討ち取ろうとしたのである。茶臼山(ちゃうすやま)から一気に駆け降りる信繁勢の勢いに松平・伊達の軍勢は翻弄され、ついに突破を許してしまう。

 

 信繁が家康本陣に迫ると油断していた旗本たちは驚いて逃げ出し、家康は死を覚悟した。が、ここで敵の応援隊が到着、あと一歩で家康の首を取ることはできなかった。

 

 退却を余儀なくされ、茶臼山付近の安居天神で休息をとっていたところ、松平忠直配下の無名の武将によって信繁は討ち取られ、その49年の生涯を終えた。その鮮烈な戦いぶりにより信繁は「日本一の兵(つわもの)」と称せられた。

 

 大坂城はその後落城。秀頼やその母・淀君らは燃え盛る城のなかで自刃。これをもって日本の戦国時代は終わりを告げたのであった。

 

●信繁の祖父・父は武田の家臣

 

 真田一族の輝かしい歴史は信繁の祖父・幸隆(正式名は幸綱)に始まる。出身は信濃国の小県(ちいさがた)郡真田郷だが諏訪氏・村上氏の侵攻により隣国の上野国に逃れたことをきっかけに、武田信玄に臣従することになる。当時信玄はまだ若かったが、幸隆はその器の大きさを見抜いたわけである。

 

 幸隆は信玄とともに村上氏を追放、本領である真田郷を取り戻すことに成功した。その後も川中島の戦いなどで手柄をあげ、武田家臣としての地位を固めていく。

 

 信玄もまた幸隆を古くからの家臣と同様に扱った。信玄が幸隆を重用したのは、何よりその謀才を高く評価していたからである。調略、つまりは相手を説得し戦わずして、戸石(といし)をはじめ、尼飾(あまかざり)、岩櫃(いわびつ)、白井を次々に落城させるなど、幸隆は信玄に多大な貢献をしている。

 

 まさに智謀の一族の開祖らしい人物であった。信玄が病没した翌1574年、幸隆もその生涯を閉じた。

 

 真田家を継いだのは長男の信綱。だが1575年、長篠の合戦において武田軍は織田・徳川の連合軍に大敗。ここで信綱と二男の昌輝が戦死してしまう。そこで家督(かとく)を継いだのが三男の昌幸だった。

 

 勝頼が跡を継いでからというもの、武田氏は凋落(ちょうらく)の一途を辿った。そして1582年、信長に攻め込まれついに武田氏は滅亡のときを迎えた。

 

 ここで昌幸が取った行動は素早かった。まずは関東の大勢力であった北条氏に帰属し、それから間もなく今度は織田信長へ馬を贈り臣下となる。武田の家臣の多くが首を取られていくなか、真田家がしたたかに生き残っていくことに成功したのは、こうした昌幸の先見の明あってこそである。

 

 しかしそれからわずか数カ月後、本能寺の変が勃発、信長があっけなく命を落としてしまう。

 

 ここでも昌幸の決断は早かった。今度は成長著しい家康に接近、まんまと臣従する。このあたりの昌幸の行動は、悪く言えば節操がないわけだが、生き残るためにモラルも何もあるかという必死さが窺える。

 

 昌幸は後に秀吉から「表裏比興の者」(表裏が一致せぬもの、くわせ者)と評されることになるが、この時代にわずかな領地しか持たない小大名が生き抜いていくためには、その言葉こそが最高の褒め言葉と捉えることもできよう。

(その3に続きます)

 

(週刊FLASH 2009年5月12日号)

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