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「僕たちの夜の友達」ギャラで見る「AV」興亡史(1)
夜バナFLASH編集部
記事投稿日:2016.08.20 20:00 最終更新日:2016.10.12 12:58
アダルトビデオが「生撮り」と称されて世に出たのは1981年だが、当時はまだビデオデッキが20万円ほどと高額だったため、日本の成人指定映像の王道は日活ロマンポルノであり、ピンク映画だった。
撮影所で撮られるロマンポルノと違い、独立系のピンク映画はすべてロケセットを借りて撮られ、撮影日数は4日間で、製作費は300万円。
女優のギャラの相場は、当時の巨乳アイドル・中村京子によると、「1日4万~5万円。撮影が終わったあとのアフレコはノーギャラ」。
黎明期のAVのギャラを聞くと、「製作費にもよるけど、一日5万から10万円だった。当時はフリーのモデルのコがほとんどだった」という。
プロダクションに所属する女優が出演するようになり、ギャラは跳ね上がる。AVの普及と比例するように、製作費も上がっていったのだ。
■1986年以降、2万本を超えるヒット作が誕生
AVが誕生した1981年。ロマンポルノでもピンク映画でもない、ハードコア映画『白日夢』が公開された。売りは本番ファック。主演の佐藤慶の相手役に抜擢されたのが愛染恭子だ。
彼女は青山涼子の名でピンク映画に出演していた。『白日夢』で一躍スターとなり、同年、代々木忠監督と組んだAV『淫欲のうずき』に出演。
代々木&愛染コンビは翌1982年にも『華麗なる愛の遍歴』を発表し、トータルで2万本以上のセールスを記録。愛染のギャラは、当時50万円超と噂されていた。もちろんこれは破格だ。
AVの普及にひと役買ったのが裏ビデオの名作といわれる『洗濯屋ケンちゃん』。
1982年あたりから出回り、家電屋がおまけ商品としたことによりビデオデッキの売り上げは伸びた。『~ケンちゃん』は13万本が流通し、12億円を売り上げたといわれる。
1986年にはビデオデッキの普及率が40%を超える。価格は10万円を割った。この年からAVはスター女優の時代となり、成人映画から主役の座を完全に奪い取った。
1986年は、宇宙企画から元祖セーラー服アイドルの秋元ともみが『卒業します』でデビュー。続く『青空に星いっぱい』は、成人指定でありながら濡れ場がないという掟破りの問題作として話題をさらい、秋元の圧倒的な魅力で、2作品ともに2万本を売り上げた。
AVは5000本でヒット、1万本で大ヒットと今もいわれており、1万本を超える作品は稀なのだ。
同じ頃、村西とおる監督がテレビや雑誌など多くの媒体で取り上げられ、一躍時代の寵児となる。
さらに同年、「AV女優」の呼称第1号といわれる小林ひとみもデビューした。51歳になる現在は銀座でクラブを経営。店にはオールドファンがひとみママを目当てに足繁く通う、稀代のレジェンド女優だ。
小林ひとみのギャラは当時120万円といわれていた。1987年にイギリスでロケされた大作『小林ひとみ in LONDON』2部作のギャラは200万円。この当時の総製作費は、単体女優もので500万~800万円だった。
■美少女、ハードコア、巨乳、淫乱で百花繚乱
1988年には豊丸が『吸淫力~史上最強のワイセツ~』でデビュー。膣に大根を挿入し、アナルファックまで披露。絶頂に達すると、白目を剝いて「イグー!」と絶叫するパフォーマンスで業界を震撼させた。
同年、沖田ゆかり、咲田葵らもデビューし「淫乱ブーム」勃発となる。美少女、ハードコア、巨乳などと並び、淫乱もひとつのカテゴリーとなり、活況を呈した年となった。
アダルトビデオの帝王と呼ばれ、個性的な言動でテレビでも有名になったクリスタル映像の村西とおるは、1988年に未成年の少女をAVに出演させて児童福祉法違反容疑で逮捕され、同年クリスタルと袂を分かち、ダイヤモンド映像を設立。
当初は経営難に喘いでいたが、松坂季実子が売れたことで、1989年から快進撃が始まる――。
(その2に続きます)
構成・手塚和成 文・沢木毅彦
(FLASH+増刊号2015年5月5日より)