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1300年前の『風土記』にも日本人の混浴が記されていた!
夜バナFLASH編集部
記事投稿日:2016.09.25 20:00 最終更新日:2016.10.12 10:43
「なんて野蛮な奴らなんだ!!」
1853年、下田の地を初めて踏んだペリーは、日本人の混浴姿を目のあたりにして、そう呟いたに違いない。
彼が帰国後に書いた『日本遠征記』には「男も女も赤裸々の裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴している」と驚きを記している。しかし日本では、古来から男女一緒の入浴が当たり前だったのだから、仕方がない。
1300年も前の『出雲風土記』では、老若男女が川辺に湧き出す湯につかり、景色を楽しみ、万病を癒やし、『神の湯』と呼んだと紹介している。
動物が温泉につかるのを真似て、好奇心旺盛な日本人は湯につかり、体にいいことを知り、「湯治」が始まる。
やがて人々は石で湯船を造り、東屋(あずまや)を建て、人も集まり温泉街なるものが生まれる。
一方、江戸幕府開幕と同時に、大坂を発祥地とする湯屋(銭湯の原型)が普及しはじめるが、ここでも「入り込み湯」「打ち込み湯」と呼ばれる混浴が当たり前。日本で初めて混浴が規制されるのは寛政の改革時(1791年)である。
しかし庶民はあまりこれを相手にしなかったようだ。その後のペリー来航も、日本の混浴史において影響はない。日本において男女別々の入浴習慣が本格化するのは、明治になってからである。
明治5年(1872年)の取り締まりを皮切りに、明治12年に東京府が混浴を禁じ、明治23年には警視庁令で禁止。明治33年には内務省令で禁止した。
明治生まれの作家・井上靖が、幼少時の淡い思い出を綴った『しろばんば』には、次のように混浴が描かれる。
《洪作たちは共同湯に着くと、われ先にと真っ裸になり、思い思いに浴槽に飛び込んで、湯の飛沫を上げて暴れた。(中略)さき子の白い豊満な裸体が湯しぶきの間から眩しく見えた》
各家に風呂も普及しはじめ、徐々に徐々に、混浴というスタイルは日本人の記憶の彼方へ。そして大正、昭和と時代は駆けていく。
昭和23年(1948年)の法令により、銭湯や共同浴場は男女別々に。地方にある一部の混浴温泉や共同浴場だけ残して、混浴は姿を消した。
江戸時代には温泉番付が出回り、湯治のかたわら、観光を楽しむ人も増えた。いまこそ美女探しを兼ねて、混浴の旅に出たいものだ。
(週刊FLASH 2013年2月12日号)