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大河ドラマではわからない「秀吉と家康どっちが性豪?」
夜バナFLASH編集部
記事投稿日:2016.03.27 21:05 最終更新日:2016.10.12 13:19
NHK大河ドラマ『真田丸』が好調だ。主演・堺雅人+脚本・ 三谷幸喜のヒットメーカーコンビが屈指の人気キャラ・真田信繁(幸村)をどう描ききるのか。ファンならずとも期待が高まる。
そんな戦国時代、男と女はどう思いを通わせ、愛し合っていたのだろうか。当時を代表する言葉が「下剋上」。実力がなによりものを言った時代である。歴史家・作家の加来耕三氏が解説する。
「戦国時代は10年続いた応仁の乱で身分制が崩壊したあとの時代です。当時はまだモラルというものが確立されていない。補佐役の家来であってもけっして信頼できないのが戦国時代。容姿や発想、行動とすべてが人並み外れていないと、誰もついてきてくれない。当然、戦国武将は強力な性豪ぞろいだったと考えるのが自然でしょう」
戦国時代随一の「好き者」といえば、この人しかいない。太閤・豊臣秀吉だ。
「秀吉はとにかくきれいな人が好きだった。この場合の『きれいな人』とは高貴な人、身分の高い人を指します」
「戦国一の美女」こと、京極殿(京極竜子)も秀吉はものにした。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。浅井三姉妹(茶々・初・江)は従妹にあたる。
京極氏は浅井氏の主筋にあたり、彼女は同じく秀吉の側室だった茶々(淀殿)よりも格上。
「京極殿は秀吉お気に入りの側室。大変な美女であったと伝えられています。子をなさないにもかかわらず、大事にされた」
秀吉は合戦史上でも画期的な試みを実現している。戦場に側室たちを帯同したのだ。
「1590年の小田原征伐がそうです。このとき、合戦の常識を超えてしまったわけです。『両軍睨み合って』といった緊張関係は一切なし。戦場でどんちゃん騒ぎをして、女性を呼び込んだ。挙げ句の果てに遊廓まで作った」
これでは籠城する北条勢はたまらない。
「もちろん、これは周到な心理作戦。古くから男色が流行した背景には、合戦に女性を連れていかない慣習が影響しています」
ちなみに秀吉は男色に関心がなかったそうだ。
秀吉の好敵手、天下人・徳川家康は下半身でも負けてはいない。側室はほとんどバツイチ以上の出戻りばかり。その理由と は?
「家康の側室の特徴は、全員過去に結婚して子供を産んでいること。そのうえで健康な者を選ぶ。堅実な彼の性格があらわれ ています」
幼少時から人質に出されてきた苦労人ゆえの異常な慎重さは女性にも向けられていた。
「戦国時代にはまだ性病がどう感染していくのかよくわかっていなかった。そのうち、どうも女性と接することで病気にかかるとわかってきました。家康は医学全体の知識にも通じていた人物。彼は性病対策として遊女を身辺に近づけなかったそうです」
秀吉の死後、天下があと一歩で手に入るというころになると、 10代の側室を置く「ロリコン」に変貌する。70歳前後でも子をもうけ、絶倫ぶりもまさに“天下人”だった。
「家康は『房事(セックス)のやりすぎは寿命を縮める』という意識を持っていました。毎朝、木馬に乗り弓を百回射てから、槍と剣の素振りをおこない体を鍛えた」
人生50年の戦国時代、最後に子をなしたのは64歳のとき。「老いてますます盛ん」だったからこそ、徳川300年の歴史があったのだ。
(週刊FLASH 2016年3月8日号)