夜バナ
僕らの青春『日本版PLAYBOY』編集モットーは「情熱と妄想」
夜バナFLASH編集部
記事投稿日:2016.07.08 21:00 最終更新日:2016.10.12 13:13
「『PLAYBOY』みたいな雑誌を作り、男たちに感動を与えたい!」
島地勝彦氏は集英社の入社面接時、当時の専務に向かってこう言ったとか。
「じつは学生時代から英語版『PLAYBOY』の愛読者でね。普通の街の本屋で売ってたんだ。毎月一冊全部辞書を引き引き英語の勉強と称して読んだ。ロアルド・ダールの小説なんかも載っていてダンディでお洒落だった」
入社後すぐに「週刊プレイボーイ」が発足し、同編集部に配属されたが、月プレ創刊とともに同誌の副編集長に。
「哲学者サルトルのロングインタビューを掲載し、現代詩のアレン・ギンズバーグの猥褻裁判なんかを誌面で追いかけている。すごい感動したね。そこに加えてフルボディのヌード。創刊号 からモンローが脱いでるんだもんな」
創設者のヘフナーは「器が違う」と思いながら、島地氏の編集長時代はアメリカ経済が衰退を迎え、“洋もの”への憧れも収まったころ。週プレを100万部雑誌にしたノウハウを用い、若者文化のルポなども盛り込んだ。
「すでに当時、栄養がよくなったせいか、大和撫子もボリューミーになり、グラビアの比率でも半分以上にした。ま、ヘア解禁でこの種の雑誌がダメになったねぇ……」
島地氏の編集モットーは「情熱と妄想」。ヘアも妄想の邪魔物に思える。そんな男の妄想、好奇心を刺激する事柄なら「森羅万象なんでも取り上げた」雑誌が「月プレ」だったのだ!
【「日本版PLAYBOY」はインタビューがすごかった!】
’75年12月号 モハメッド・アリ
好敵手ジョー・フレイザーに勝利を収めた後。次の対戦を最後に、引退をほのめかしている
’76年12月号 ジミー・カーター
大統領候補時代におこなわれた。女性を情欲の目で眺めると率直告白。全米を騒然とさせた
’80年3月号 阿久悠
小説『瀬戸内少年野球団』を発表した翌年。作詞を含めた自身の創作歴を語り尽くした
’80年4月号 手塚治虫
『火の鳥』のアニメ映画公開時に。漫画とは「自分の欲求不満や周囲へのアンチテーゼ」と
’80年6月号 矢沢永吉
ソロ5年めで永ちゃん節が炸裂。おれは「頂点をめざして歩きつづけずにはいられない男」
’80年11月号 山口百恵
ラストコンサート直前、自身の芸能生活を振り返る。聞き手は筑紫哲也が直接指名された
’81年1月号 黒澤明
『影武者』がカンヌ映画祭でグランプリを受賞。冷淡な反応の日本映画界に失望を表わした
’81年2月号、3月号 ジョン・レノン&オノ・ヨーコ
「音楽はすべて焼き直しさ」。ジョン・レノンが凶弾に倒れる直前におこなわれたインタビュー
’83年7月号 田中角栄
ロッキード事件の一審判決直前、選挙のためには全国の村の歴史まで学ぶ必要を説いた
’84年3月号 本田宗一郎 年寄りがいつまでもいては会社がつぶれると、67歳にして社長の座を降りた理由を語った
’85年2月号 ポール&リンダ・マッカートニー
ジョン・レノンが亡くなって4年。彼との最後の会話が「せめてもの救いになっている」
’85年3月号 スティーブ・ジョブズ
マック旋風の直前。IBMが勝つようなら「20年にわたってコンピュータ暗黒時代に入る」
’86年2月号 吉永小百合
当時40歳。「どっかにアマチュアっぽさというのは持っていたいという気持ちはあります」
’86年3月号 フィデル・カストロ
米国への痛烈な批判を展開。アメリカの掲げる「『自由の旗』とはいったい何なのかね?」
’86年5月号 村上春樹
小説の書き直しについて。「僕の場合は、不変のメートル原器として、まず女房に読ませる」
’89年11月号 キース・リチャーズ
ローリング・ストーンズ解散の噂がささやかれるなか、ミック・ジャガーの横暴を激白した
’92年9月号 マイケル・ジョーダン
スターならではの苦悩を吐露。周囲に騒がれて嬉しいのは「プロ入りして4年めまでだね」
’98年6月号 ダライ・ラマ
チベット自治権獲得をするうえで、「和解の精神で平和的に解決しなければなりません」
’06年2月号 高倉 健
初の中国映画出演を機に俳優論を語る。俳優とは「監督の希望をどう細かく解釈できるか」
●「日本版 PLAYBOY」●
創刊号:1975年7月1日発行
創刊編集長:岡田朴
終刊号:2009年1月1日発行
アメリカ版創刊年:1953年
アメリカ版発行人:ヒュー・ヘフナー
(週刊FLASH 2016年6月28日号)