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「美の数値化」を目指した男、いまは東京五輪プロジェクトリーダー
連載FLASH編集部
記事投稿日:2017.12.14 11:00 最終更新日:2017.12.14 11:00
菅野和弘さん(51)の話の引出しはじつに多い。手品師が何もない空間から煙草を取り出すように手際よく、かつ意表を突いた例を持ち出す。たとえば、人はどんなものを美しいと考えるかについて、和菓子の虎屋のお釣りのピン札、ワインのカロン・セギュールのラベルのハートマーク等々。聞いているとすぐ1、2時間が過ぎてしまう。
「大手広告代理店に入り、派手なことや注目されることをやって世の中を変えてみたい、誰もが羨む仕事をしたいと、学生のころから走り続けていました。バブルの時代で、かなわない夢はないという思いを常に持っていた。
ブームだったF1の広報の仕事で世界を回り、ラジオ番組や雑誌のコーナーを持つなど、今の仕事がこのまま続けばいいと考えていた。
モータースポーツの後は、絶頂期のX JAPANやGLAYなどのプロモーション・プロデュース。20代は、とにかく世の中にブームや騒ぎを起こすことが、魅力的なことなのだと思っていました」
しかし世間から注目を浴びる仕事は、30代になるころには無意味な空騒ぎに思えるようになった。自分の仕事が社会にどのように貢献しているのか? 金の無駄遣いではないのか? 仕事の存在意義をあらためて考えた。
そして、楽しい時間を提供しながら、消費行動を促す広告の力は無限大で、それによって生まれる消費の力は、豊かな生活を送る手助けができることに気づいた。
「商業広告は、次の世代を豊かにする大きなコミュニケーションだと理解しました。格好よさや、物が売れることを経験や感覚ではなく学術的に捉え、学問として残したい。そのために芸術学を学び、美の観点から仕事を見直したい。
35歳のときに京都の芸術大学に入学し、先生としてマーケット理論を教えながら、生徒として芸術学を学びました。会社の理解があったからできたことで、仕事と両立させて、給料をもらいながら、5年かけて卒業しました」
会社には恩義があった。しかし時代が下り、広告の代理店という業務自体が世の中に取り残されつつあり、テレビコマーシャルを打てば物が売れる時代ではなくなってきた。やりたいこともあって、41歳のとき会社を辞めて起業した。
「やりたかったのは、広告と芸術学が半々。美しく見える比率に黄金比や白銀比があるように、『間』『行間』『隙』など、日本特有の美学を数値化できないか。心がときめく理由などを理論として説明することがテーマで、それを広告やマーケティングに活用できないかと考えました」
実際に仕事の幅は広がり、街の開発を広告や芸術的視点で見ることを依頼されたり、東京藝術大学130周年のコンサルティングをおこなったりしている。
ところで、菅野さんは2枚の名刺を持つ。1枚は起業した会社の商業美術家名義のもので、もう1枚は辞めた会社の新たなものだ。
「3年前に広告代理店時代の1年上の先輩から、オリンピックの仕事ができるかもしれないと聞かされた。初めて会社を辞めたことの後悔や寂しさ、残念さを味わいました。最大のイベントの山に登ってみたかった。
ところが、その先輩が1週間後に突然亡くなった。何も言われていなかったが、何かをしなければと思いました。
しばらくして、『2020年に向けてオリンピックを推進するためにプロジェクトを立ち上げるが、会社に戻ってこれないか』という話をいただいた。自分の使命だと感じ再入社し、新たな思いで2020年まで走ろうと決めました」
現在、菅野さんは、広告代理店の「2020推進室」のプロジェクトリーダーとしてオリンピックに関わっている。新エンブレムの選定に携わった後、東京都がおこなう各種イベントやパラリンピック関係のイベントなどを手がける。
「趣味は仕事」、まだ暗い早朝から深夜まで、菅野さんの過密スケジュールはオリンピックまで続く。
(週刊FLASH 2017年12月26日号)