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1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊

連載FLASH編集部
記事投稿日:2018.07.17 11:00 最終更新日:2019.08.01 15:58

1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/聖火リレーコース踏査隊

イランのシャールードで出迎えた地元関係者(提供:本城信)

 

 2020年に開催される東京オリンピックの「聖火リレー」コンセプトは、《Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。》というものだ。
 ギリシャで採火された聖火は、どのように日本に運ばれるのか。それを知るため、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。

 

 1964年の東京五輪の聖火は、計画初期においては、必ずしも空輸を前提にしていたわけではなかった。ギリシャから延々と陸路で運ぶ構想も、真剣に考えられていた。

 

 

 そのアイデアの発端は、1940年に開催予定だった「幻の東京五輪」での計画にさかのぼる。1936年のベルリン大会で聖火リレーを初めて生み出したカール・ディームが、シルクロードをたどる聖火リレーコースを提唱していたのである。

 

 1964年の東京五輪招致が決まってからも、シルクロード経由の陸路リレーは真剣に検討された。さすがに中国がオリンピックをボイコットしていた当時の状況では実現は難しかったものの、ユーラシア大陸を陸路横断するという発想は残った。

 

 そんな折り、朝日新聞社がユーラシア大陸を自動車で走破する計画を立案し、日産自動車がクルマと人員を出すことで協力。この企画に、組織委員会が乗った。それが、「聖火リレーコース踏査隊」である。

 

 1961年6月23日、2台のクルマに分乗した踏査隊がギリシャのアテネを出発。合計6名のうち、日本人で初めてマッターホルンに登頂した麻生武治、車の運転技術を買われた森西栄一の2人が組織委員会からの参加だ。

 

 旅の始まりはすこぶる順調で、6月28日にはイスタンブールに到着。数日間の滞在中、現地の関係者とリレーの打合せを行った。こうして踏査隊はイランなど各地で大歓迎を受けながら、打合せをこなしていく。

 

アフガニスタンの荒野を行く踏査隊(提供:岩倉佐波吏、本城信)

アフガニスタンの荒野を行く踏査隊(提供:岩倉佐波吏、本城信)

 

 だが、アフガニスタン入り直後よりトラブルが発生する。下痢や発熱に襲われる隊員が出たり、治安の悪さから足止めをくったり、旅費を盗まれたり……と散々。水害や反政府ゲリラの暗躍で思うように車を進めることもできない。

 

 一行が最終目的地シンガポールにたどりついたのは、半年後の12月22日のことだった。しかも、麻生を含む2人が途中で離脱するという状況である。

 

 帰国後、隊員たちは組織委員会にレポートを提出。隊員たちの見解は「陸路でのリレーの道は開けた」「陸路走行は非常に困難」などまちまちだったが、組織委員会の最終判断は「陸路案は不適当」というものだった。ここから空輸という結論が出た。

 

 この結論をもとに、翌1962年3月、踏査隊が訪問した各地を再訪して空路案への変更を伝える旅が実施された。その任を買って出たのは、当時、組織委員会の総務委員会メンバーだった高島文雄である。

 

 高島文雄は、戦前、大日本体育協会の会長に師事して弁護士となり、これがきっかけで大日本体育協会と関わることになる。戦後は日本体育協会の国際担当部門の委員長などを歴任した「国際派」である。

 

 今回の任務にうってつけの高島にちなんで、この旅は「高島ミッション」と呼ばれた。

 

 高島は踏査隊最年少メンバーだったドライバーの森西栄一をともない、踏査隊が立ち寄ったユーラシア各地を再訪し、理解を求めた。

 

 こうして、東京五輪聖火リレーは、空輸で行うという方針が決まった。だがこれ以降も、聖火リレー計画は迷走を続けるのだ。

 

●夫馬信一
 1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。

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