2020年に開催される東京オリンピックの「聖火リレー」コンセプトは、《Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。》というものだ。
ギリシャで採火された聖火は、どのように日本に運ばれるのか。それを知るため、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。
1962年7月4日、「聖火リレー特別委員会」の第1回会合が開かれた。委員会のリーダーは、ユーラシア各地に空輸を依頼して回った高島文雄。そして、「ミスター聖火」中島茂の姿もあった。
中島茂は、聖火リレー特別委員会の下に生まれた「国外小委員会」「国内小委員会」「技術小委員会」の3つの小委員会すべてに参加する多忙ぶり。だが、「これを解決するのも私の仕事ですから」と平然としていた。
空輸が決まっている聖火リレーをめぐり、計画全体を左右するひとつの提案がなされていた。それは戦後初の国産旅客機として開発中だった「YS-11」の使用である。
東京五輪に先立つ第3回アジア競技大会の聖火空輸では、海上自衛隊の対潜哨戒機が使われた。だが、軍用機では国際的な手続きがかなり煩雑なものとなる。
そこで民間機を使用することが考えられ、折しも国産機YS-11が開発中だったため、その世界デビューを兼ねた聖火空輸が検討されたようだ。YS-11は1962年8月30日に初飛行が成功し、委員会内でのムードは決定的となった。
だが、それが聖火リレー計画全体を空転させる原因となってしまう。
実は、初飛行こそ成功させたものの、YS-11の実用化は暗礁に乗り上げつつあった。振動、横方向の不安定性、舵の効きの悪さなどが、飛ばしてみて初めてわかったのだ。そのため、開発スケジュールがどんどん先送りになっていった。
聖火リレーの計画は、使用する飛行機頼みのところがあった。当時のアジアの空港事情は、今日のように恵まれたものではない。寄港候補地のなかには、滑走路が短くても離着陸できるYS-11でないと降りられない空港も存在していたのだ。
使用する飛行機を決定しないと、コースや計画の細部も決められない。かつてグライダーの指導にあたっていた中島は、航空機の問題が聖火リレー計画全体を左右することを理解していた。
そこで中島は、YS-11の使用に疑問符をつける文書を組織委員会に提出して、再考を促す。二転三転の末、国外リレーではYS-11ではなく、日本航空のDC-6Bが使用されることになった。国内リレーは陸路だ。
1964年4月には、高島文雄や、日本航空から派遣された熊田周之助らが、最終打合せのため各国の寄港予定地に赴いた。各地の航空事情や空港施設などの実地検分がその理由だと思われる。
一方、YS-11の開発は急ピッチで進められていた。試験飛行ではなく航空会社が運航するには「型式証明」を取らねばならないが、そのメドも立ち始めた。
そこで、今度はYS-11を国内での空輸に用いるというプランが浮上。こちらの運航は全日空が行うことで調整が進んだ。YS-11が最終的に型式証明を取れたのは、1964年8月25日。すでに聖火はオリンピアを出発して、日本に向けて国外リレーを行っている最中だった。まさにギリギリのタイミングである。
こうした水面下の暗闘は、「ミスター聖火」中島茂に精神的にも肉体的にも負荷をかけていた。中島の左目には、徐々に異常が起きていた。病名は「中心性網膜炎」。中島はサングラスでかばいながら聖火リレーの激務に耐えていたが、まもなく左目を失明してしまうのだった。
●夫馬信一
1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。