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1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/日本でコレラ発生

連載 投稿日:2018.07.19 11:00FLASH編集部

1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/日本でコレラ発生

イスタンブール市庁舎前での聖火台点火
(提供:熊田美喜/協力:阿部美織、阿部芳伸、阿部哲也)

 

 2020年に開催される東京オリンピックの「聖火リレー」コンセプトは、《Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。》というものだ。
 ギリシャで採火された聖火は、どのように日本に運ばれるのか。それを知るため、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。

 


 1964年8月21日、ギリシャ・オリンピアのヘラ神殿跡で、東京五輪のための聖火の採火式が行われた。採火を行った巫女役はギリシャ女優のアレカ・カッツエリ。ギリシャ国王コンスタンティノス2世に手渡された聖火は、リレー第一走者へと渡された。

 

 

 この日のために東京からやって来た「国外聖火空輸派遣団」を率いるのは、事前に各地に空輸を依頼して回った高島文雄。もちろん、「ミスター聖火」中島茂も聖火係として同行した。彼らはギリシャ国内で始まったリレーに随行して聖火をフォローしていく。東京までの長い旅路が、いま始まったのだ。

 

 聖火を運ぶのは、日本航空のDC-6B「シティ・オブ・トウキョウ」号。ギリシャ国内を回った聖火は、8月23日朝に聖火と派遣団一行を乗せてアテネを飛び立った。

 

国外空輸のDC-6B「シティ・オブ・トウキョウ」号(提供:熊田美喜/協力:阿部美織、阿部芳伸、阿部哲也)

国外空輸のDC-6B「シティ・オブ・トウキョウ」号(提供:熊田美喜/協力:阿部美織、阿部芳伸、阿部哲也)

 

 派遣団と聖火を待ち受ける道のりは、必ずしも平穏とはいえなかった。

 

 寄港地のひとつビルマ(現・ミャンマー)は1962年にクーデターが起きたばかり。当時の東南アジアには政情不安な国が多かった。

 

 さらにこの時期、最大の国際問題が「キプロス危機」だ。東地中海の島国キプロスでギリシャ系とトルコ系の住民の対立が激化し、ギリシャ・トルコ両国の関係が急速に悪化していた。

 

 そんな折りもおり、ギリシャから運ばれて来た聖火が最初に訪れたのがトルコのイスタンブールだった。派遣団は旅の始まりから、いきなり緊張を強いられる。だが、心配は杞憂に終わった。聖火はイスタンブールの人々から熱狂的な歓迎を受けたからだ。

 

 むしろその時期には、日本の方が不穏な状況だったかもしれない。なんとオリンピックを間近に控えた8月25日、千葉県習志野市でコレラが発生、死亡者まで出たのだ。日本国内は大混乱に陥った。

 

 一方、「シティ・オブ・トウキョウ」号は順調な旅を続ける。一行がインドのニューデリーに到着したところで、国外聖火リレーのハイライトともいえるイベントが行われた。ネパールのカトマンズに向けて、聖火が「分火」されたのである。

 

 当初、国外聖火リレーの計画では、滑走路が短くてすむYS-11の使用が想定されていた。しかし、途中でDC-6Bに変更され、着陸できないカトマンズ訪問の可能性が消えた。

 

 だが、ネパール側は聖火を熱望。そこで同国王室専用機でインドのニューデリーまで聖火を取りにきて、「分火」された聖火をカトマンズに輸送。リレーを行った後、「シティ・オブ・トウキョウ」号の次の寄港地カルカッタ(現・コルカタ)に聖火を戻すという難事をやってのけたのだ。

 

 今日、東京五輪の国外聖火リレーについて紹介する際、寄港地の中にカトマンズを入れる者はいない。確かに「シティ・オブ・トウキョウ」号がカトマンズに行くことはなかったが、聖火リレーは間違いなくエベレストの国ネパールでも行われたのである。

 

●夫馬信一
 1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。

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