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1964年「東京五輪」聖火を空輸した男/飛び立つ「聖火」号
連載FLASH編集部
記事投稿日:2018.07.21 11:00 最終更新日:2018.07.21 14:29
2020年に開催される東京オリンピックの「聖火リレー」コンセプトは、《Hope Lights Our Way / 希望の道を、つなごう。》というものだ。
ギリシャで採火された聖火は、どのように日本に運ばれるのか。それを知るため、1964年の東京五輪を振り返ってみたい。
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1964年9月8日、羽田空港。全日空マークとロゴ、東京五輪エンブレムを機体に付け、「聖火」号と名付けられたYS‐11が、大勢の人々に見送られて飛び立とうとしていた。
同機は聖火の国内リレーのために聖火を空輸すべく、沖縄に向けて出発するところ。思えば、聖火リレー・プロジェクトがまだ計画段階であった1962年夏、すでにYS-11の名前があがっていた。そこから2年の歳月を経て、ようやく聖火空輸が実現するのである。
一行は9月8日の午後4時半に沖縄に到着。同乗していた全日空スチュワーデスの板倉(現・白木)洋子は、その時の那覇空港の印象をこう語っている。「JALさんが運んだ聖火が島内をリレーしていたので、空港は静かでしたね」
全島の興奮はリレーに集中していて、YS-11に注目する人は少なかったようだ。
翌9日朝に、国外聖火空輸派遣団の中島茂によって「分火」された聖火が空港に運ばれて来る。だが、歓送セレモニーもひっそりとしたものだった。YS-11初の晴れ舞台は、ひどく質素な形で始まったのである。
だが、地味なフライトだったのは最初だけ。鹿児島空港が近づいて来ると、航空自衛隊のジェット練習機T‐33がエスコートするために飛来する。YS-11「聖火」号が鹿児島空港に到着したときには、那覇空港とは打って変わって大勢の人々が迎えた。
盛大な歓迎セレモニーが行われたが、運行を担当した全日空クルーにとっては、同乗している報道陣たちの入国手続きで大わらわ。ここから、ようやく国内聖火リレーの第1コースが早くもスタートしたのである。
そんなセレモニーに参列する人々のなかに、サングラスをかけた「ミスター聖火」中島茂の姿もあった。
本来、派遣団聖火係としての中島の役割は、国外聖火リレーが幕を降ろす沖縄までである。だが、中島は、個人的な責任感からYS-11に同乗して国内空輸にもつき合ってた。
ただし、国内空輸と3カ所でのセレモニーでは、中島はまったく前面に立たず、隅にひっそりと引っ込んでいた。あくまで「国外」の派遣団員である中島は、国内空輸では自らの分をキッチリとわきまえていたのである。
こうして鹿児島での任務を終えて出発したYS-11は、次に宮崎空港へ。YS-11は、その後、本拠地である名古屋空港へ。ここはセレモニーではなくあくまで給油のためだったので、クルーや聖火派遣団、報道陣たちは慌ただしい騒ぎに巻き込まれることもなく、ホッと一息入れたに違いない。
残す目的地は札幌・千歳空港のみ。
しかしここからの空の旅は、一気にキツいものとなった。天候悪化によりYS-11は揺れに揺れまくったが、札幌到着時刻は決まっていたので、悪気流のなかを飛ばねばならない。
その凄まじい揺れを、スチュワーデスの板倉が明かす。「前日からの緊張と寝不足で私も気分が悪くなりました。なんとか一通りの客室業務をこなしましたが、我慢できなくなり、後部席で毛布をかぶって30分ほど横になっていました」
しかし、津軽海峡に差し掛かる頃には、天候も回復。先ほどまで横になっていたスチュワーデスの板倉も、エスコートのために飛んで来た航空自衛隊の戦闘機F‐86Dの写真を撮っていた。
午後4時頃に、YS-11は札幌千歳空港に到着。ここを起点として、聖火国内リレーの第3・第4コースがスタートした。YS-11は、見事にその任務を果たしたのである。聖火空輸を巡る長い長い旅路も、ここでようやく幕を閉じた。
●夫馬信一
1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『幻の東京五輪・万博1940』『航空から見た戦後昭和史』(いずれも原書房)など。今年2月には『1964東京五輪聖火空輸作戦』(原書房)を発売。