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女子アナ日下千帆の「美女は友達」ハーブに魅かれた宮崎宣子アナ
芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2020.05.14 16:00 最終更新日:2020.05.14 16:00
今回ご紹介する美女は、先日収録でご一緒しました、元日本テレビの宮崎宣子アナウンサーです。民放のチャンネルが2つしかない宮崎県で、美しい自然に囲まれてすくすく育った宮崎さんは、生放送に遅刻するなど、天然キャラのイメージで知られていますが、真面目な努力家の一面もお持ちです。
アナウンサーを目指すきっかけから、現在のお仕事までの軌跡を伺ってみました。
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宮崎さんのお父様は高校の国語の先生、お母様は幼稚園の先生をされていたため、子供のころは、ご自身も高校の英語の先生になりたいと考えていたのですが、転機は中学3年生のときに訪れました。
成績優秀な初恋の男の子が、宮崎さんと同じ高校に通うために、ランクを下げた高校を受験すると話したところ、担任の先生から毎日、「彼と別れてくれたか」と確認の電話が入るようになりました。仕方なく、彼には「嫌いになった」と嘘をつき、別々の高校に通うことになりました。このことがきっかけで、このまま宮崎にいては周囲につぶされる、もっと自由に生きたいと願うようになりました。
アナウンサーを目指すきっかけとなったのは、高校1年生のときに、偶然、見ていたテレビのNG特集番組でした。TBSの雨宮塔子さんのNGを見ながら、アナウンサーになれば旬なお店に行くことができ、旬の人に会えて、安定の会社員でありながら働いている姿を両親に見せることもできる。そして何より、マスコミに強い大学に行くと言って東京に行ける、と閃いてしまったのです。
早稲田大学に入学し、たくさんの人材をマスコミに輩出している「アナ研」に入部。学生時代から、現役アナウンサーや、出版社に勤めるOB・OGとのコネクションも構築でき、見事、日本テレビのアナウンス部に合格しました。
ところが現実は、夢に見ていたアナウンサーの生活とは、ほど遠かったようです。
「最初の3年間は地獄でした。毎日、自分ができないことだらけで正直つらかったです」
激しく共感いたします。アナウンサーの仕事を、最初から自信を持って向いていると言い切れる方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。失敗の連続で、何年もしがみついた後に、ようやくやり甲斐や楽しさに気づけるのが、この仕事です。
少しずつ変わってきたのは、『ラジかるッ』という生放送の番組を担当したころでした。
「小島よしおさんやギャル曽根さんが、この番組をきっかけに育っていくのを目の当たりにして、刺激を受けました」
生放送に遅刻したとき、宮崎さんはスポーツ新聞の記事を紹介するコーナーを担当していました。
「遅刻の翌日は、自分の記事を自ら読む羽目になり、それがまた翌日の記事になるという、想像できない現象もありました(笑)」
そのあとに担当した『ザ!世界仰天ニュース』は、初めての全国ネットのレギュラー番組で、両親に東京で活躍する姿を見せることができました。しかし、7年目を迎え、入社時に決めた目標をすべてクリアしたことに気づき、向かうべき方向性を見失ってしまいます。
「そのころ、顎関節症を患って、8カ月の休職をすることになりました。復帰後は『Oha!4 NEWS LIVE』という早朝番組を担当したのですが、今度は生活のリズムが崩れたことから体調不良に。やめたくない気持ちと成長しない自分。この葛藤の後に、東日本大震災が起きました」
当時お付き合いされていた彼から、「本当にやりたいことに打ち込んでみたら」とアドバイスをもらったことをきっかけに、フリーアナウンサーの道を選びました。
「日本テレビ退社後は、アナウンサーの仕事にプラスして自分を肉体的にも精神的にも健康にしてくれたハーブのお仕事をしています。オーガニックハーブを使ったボディソープなどをつくっているのですが、ヨーロッパまでハーブの文化やマーケットを調査に行き、農学博士とともに試作を繰り返して、体臭を徹底的に取り除くソープを開発しました」
男性用ボディソープは、女性にモテたい男性におすすめだそうです。宮崎さんのような美女にアプローチしたい方は、試してみてはいかがでしょう?
●日下千帆(くさかちほ)
1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社し、編成局アナウンス部に在籍。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。2012年より、東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当