ジャニーズ経営陣とSMAP育ての親である飯島三智氏との対立に端を発した独立騒動。その飯島氏についていこうとした中居正広(43)ら4人に対し、当初からジャニーズ残留を決めた木村。
かつては「親のようにいちばん信頼していた」(元事務所関係者)という飯島氏から決別した木村の心境はいかにして変わったのか。
「デビュー当時によく『厳しい親父に認められたいから、芸能界で成功したい』と話していました」(古くから木村を知るテレビ局関係者)
1972年11月13日、彼は木村家の長男として生まれた。名前の由来は開拓精神の「拓」に、志賀直哉の「哉」。インテリア関係の仕事をしていた父と、専業主婦の母に育てられた。父の影響で絵や写真などが好きになり、小さいころの夢は獣医。
中学のときは剣道部と器械体操部に所属。技ののみ込みは早かったといい、大技の「側転4分の1ひねり」が得意。中学2年で初めて彼女ができた。
純朴な木村少年がジャニーズに入ったのは、父方の叔母が写真を事務所に送ったことがきっかけだった。1987年、レッスンに通い始め、「光GENJIのバックで、武道館で踊るんだ」と友人に語っている。中学の卒業アルバムは、職員室からなくなるほど人気だったという。
当時の同級生によると、「そっけない感じで、同い年の女の子にはそこまでモテる存在ではなかった」という。また、芸能の仕事をしているやっかみからイジメを受けたこともあった。
1988年、千葉県内の高校に入学(翌年から都内の高校に転校)し、バスケ部に入る。同年、SMAP結成。
アイドルとしてはデビュー前から光るものがあったと、元CHA‐CHAのメンバーで、かつて木村が「憧れの先輩」として名前を挙げた木野正人氏(47)が言う。
「木村と僕は年が近いので、よくなついてきてくれました。覚えているのは、グループ名と同じ『SMAP』という曲があり、僕が振付を担当したこと。特にダンスが目立っていたわけではないが、ほかの子とは違うハデハデしい存在感がありましたね」
また、SMAPとして主演した映画『シュート!』(1994年公開)の大森一樹監督は次のように語る。
「覚えているのは、いい意味で生意気だったこと。まだ新人だったにもかかわらず、衣装合わせのときにこっちが用意したものを『これは違うんじゃないですか』と言う。芝居でも自分のほうから『もう一回やらせてほしい』と。松田優作なんかもそうだけど、映画スターは生意気なぐらいのほうがいい。彼は当時からそんなオーラがあった」
そのころ、SMAPの一番人気はキムタクではなく森且行(41)だった。しかし、森は1996年、オートレーサーになるため脱退する。SMAP解散説も流れる危機だった。
そのとき、木村はドラマ『ロングバケーション』で大ブームを巻き起こす。そして父親がプロデューサーを務める写真集を発売。ジャニーズ事務所が関知しないという異例のもので、その「実力」を見せつけた。
デビューして間もないころ、木村は長い交際をすることになる女性と出会っている。レギュラー番組『アイドル共和国』(テレビ朝日系)で知り合ったモデルの「カオリン」ことKさんだ。
「飯島氏はカオリンの存在を木村の口から公表させて、交際を認めた」(当時取材したスポーツ紙記者)
仕事も順調、誰もがカオリンと結婚すると思っていた。だが意外な相手が現われる。のちに妻となる工藤静香(45)だ。9年にも及んだカオリンとの交際に終止符を打ち、工藤との結婚を発表したのは2000年11月。翌年には長女、その2年後には次女が誕生した。
「2004年度には長者番付『俳優・タレント』部門10位となり、推定所得は2億5000万円ほどに」(芸能記者)
しかし、工藤との結婚から「育ての親」の飯島氏と溝ができた。
「一般人のカオリンとは違い、芸能人同士である工藤との結婚に飯島氏は反対だった」(スポーツ紙記者)。
ドラマに映画、CMと単価が高い仕事がベースで、それらがないときは週に2日の『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の撮影だけ。現在の木村は工藤と一緒に娘たちの送り迎えが日課だ。
(週刊FLASH2016年2月16日号)