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女子アナ日下千帆の「美女は友達」女優を続ける大学教授「黒澤監督の通訳も」
芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2021.08.19 16:00 最終更新日:2021.08.19 16:00
人生100年時代。挑戦を続けるためにも、健康な体とエネルギーを、いくつになっても持ち続けたいものです。今回ご紹介する美女は、100年時代を生きる私たちのお手本となるエネルギッシュな女性、都立大学客員教授の湯山トミ子さんです。
湯山さんとは、10年ほど前からバレエのクラスでご一緒していますが、明らかに私より体力があるように感じております。70才となられた現在も、毎年の発表会に欠かさず参加され、トゥシューズを履いてパワフルに踊り続けていらっしゃいます。
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東京の大塚で生まれ育った湯山さんは、ご近所にお住まいだった五代目坂東玉三郎さんの幼馴染。家族ぐるみのお付き合いで、小さい頃からよくご一緒に舞台を見にいかれたそうです。
その影響もあってか、湯山さんご自身も、成蹊大学法学部時代に新聞で見つけたアマチュア劇団員募集広告に応募。女優としての第一歩を踏み出しました。
大学の教授からは、外務省の語学研修員試験を受験するようすすめられ、中国語を学んでいたそうですが、当時は女優のお仕事に魅力を感じていたため、卒業後も就職はせず、ドラマや舞台に出演されていました。
ところが、あるとき吉田日出子さんから舞台『上海バンスキング』のため中国語を習いたいと依頼され、学習意欲が再燃。中国語専門学校に通って訓練を受け、通訳としての新たなキャリアがスタートしました。
大きな契機となったのは、1981年のことでした。日中国交回復が実現した1972年以降、終戦時に生き分かれとなった中国残留孤児の身元確認の動きが民間主導で始まりました。行方不明となった子供たちを探しに行く訪中団ツアーに、当時31才だった湯山さんが通訳として参加したのです。
「身元確認ツアーと言えるかもしれません。現地に手がかりらしき情報を持っていくのですが、なかにはそれさえもなく、手がかりを探しに訪中する方もいらっしゃいました。
現地では、子供の可能性がある方が集まり、当時の記憶や残っていた物を頼りに調査が進められました」
現場で参加者の話を熱心に通訳していく湯山さんの活躍が、旅行会社の専務の目にとまり、その後、国家級のさまざまな通訳案件が舞い込んでくるようになりました。
「黒澤明監督の通訳で別荘にお邪魔したり、日中女子ソフトボールの試合を実況したりと、当時はビッグな仕事がたくさんまわってきたのです」
はたから見ると、羨ましくなるほど順調にお仕事は続いていたのですが、他人の話を訳すだけの仕事にむなしさを感じ始め、再び人生を大きく変える決断をされました。
「結婚するか、仕事に生きるか軸を定めなさい」というお父様の言葉に一念発起。1982年、都立大学の大学院を受験し、32才で合格。今度は、中国文学を専攻したのです。
院生時代には、3年間、中国へ留学。そして博士課程修了時に、タイミングよく愛媛大学の公募に合格し、国家公務員として愛媛に5年間滞在することになります。
帰京後は、5年で1億円を超える予算の中国語アプリの開発責任者を任され、学術賞を5回も受賞。68才まで教壇に立ち続けました。現在も、東京都立大学の客員教授として活躍されています。
趣味のバレエでは、2017年、2018年、2年連続でコンクールに参加し、「マダムグランプリ」で最高齢賞、韓国のコンクールでは銅賞、銀賞を受賞しました。
今後は、再び女優としてテレビや舞台で活躍したいそうです。
「今年4月に『特捜9』(テレビ朝日系)のドラマのオファーがあったのですが、行ってみたら死体の役だったの。でも、やってみたら、けっこう楽しかったわ」
枯れることのない好奇心と人並ならぬ努力で素晴らしいキャリアを築かれたのですね。湯山さんのように、いくつになっても好奇心を持ち続けられたら、人生は最後の瞬間まで楽しめるのだと思います。
●日下千帆(くさかちほ)
1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当するほか、supercareer.jpで個人向け講座も
取材協力・お好み焼き「れもん」