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笑福亭鶴光が語る「オールナイトニッポンがエロ化したわけ」

芸能・女子アナ 投稿日:2017.05.20 16:00FLASH編集部

笑福亭鶴光が語る「オールナイトニッポンがエロ化したわけ」

 

「わしが笑福亭松鶴師匠に弟子入りしたのは1967年だったんです。ANN(オールナイトニッポン)の放送開始と同じ年という偶然に、縁を感じますわ」

 

 笑福亭鶴光がANNのパーソナリティに抜擢されたのは1974年4月のこと。関西のお笑い界からの東京進出、第一号だ。落語家になって7年、ラジオのレギュラー十数本など関西のローカル番組で活躍していたが、全国区の知名度はほぼゼロ。そのため、ANNのDJも務めていた制作チーフ、亀渕昭信氏が噂を聞きつけて、オーディションを受けさせたという。当時、ANNの土曜のパーソナリティはあのねのねが務めていたが、夏の全国ツアーのために3カ月休むことになっていた。その代役を探していたのだ。

 

「亀渕さんは最初、ざこばさん(当時・桂朝丸)を間違ってオーディションに呼んだそうなんです。お互い『東京のラジオが決まりそう』とまわりに言ってたから、気まずい思いをしましたわ(笑)」

 

 放送1回め。落語、関西での経験を生かし、小咄を中心に4時間をしゃべりきった。

 

「これでええのんかなと思ってたら、亀渕さんに『君の番組はセックスアピールが足りない』と言われた。でも、正直、意味がようわからんかったんです。『セックスをアピール……そうか、エロ番組にすればええんや』と考えてしもうた(笑)」

 

 落語家だけに、艶笑咄は自家薬籠中のもの。男女の営みを想像させながら、オチはまったく違う話、という「ミッドナイトストーリー」、「ええか~、ええのんか~、最高か~」のやり取りなど、下ネタ路線が人気を呼ぶ。コテコテの関西弁での「鶴光でおま……」という冒頭の挨拶まで、エロく聞こえたものだった。

 

「嬉しかったけれど、3カ月と言われてたからね。それなら、少しでも爪痕を残してやろう、東京でメチャクチャやったろうって覚悟を決めた」

 

 同年7月、土曜担当をあのねのねから引き継ぐ。ちなみに、この改編でANNは2部制になったが、土曜だけは4時間放送のままだった。会社も学校も週休2日制でなかった当時、土曜は唯一、夜更かしできる曜日だった。土曜ANNは看板番組だったのだ。

 

 下ネタはますます過激になっていった。それと同時に人気は爆発。ハガキは毎週、1万通以上届いた。鶴光もリスナーも熱くエロに取り組んだ。鶴光の土曜ANNは1985年10月まで続き、当時の最長記録をつくった。

 

 また、『鶴光のかやくごはん』『元祖ナンチャッテおじさん』ほか番組関連本もベストセラーになった。

 

「名古屋でサイン会があったんやけど、すごい人出。オレのやないだろうと警備の人に聞いたら、『西城秀樹が来るらしい』と。隣でやるのかと思ってたら、すごい人手はオレのサイン会。ほんま、驚いた。西城秀樹並みの人気なんや、と(笑)」

 

 番組で作ったレコード『うぐいすだにミュージックホール』、も大ヒット。ただ、師匠の松鶴は落語の勉強もせず、ストリップの歌を歌っていると激怒。3カ月の破門を言い渡されてしまったという。

 

「オレも悪ノリしたけど、リスナーもひどかった。あるとき、『爆弾を仕掛けた』という脅迫電話があって緊張してたから、うっかり、そのことをしゃべってもうた。そうしたら、翌週、何十個もの『爆弾』が届いた。コチコチ音がするから、念のため、ニッポン放送隣の丸の内警察署に届け、開けてみると……みんな、目覚まし時計だった(笑)。それで、『時限爆弾です』って書いてある荷物が、何週間も届いたからね。ほんま、アホなヤツらや」

 

 1月から『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン.TV@J:COM』が始まった。

 

テレビなのに制作はニッポン放送。何か妙な感じなんやけど、相変わらずエロでやらせてもらってます」

 

 隔週土曜日22時から24時の生放送。だが、懐かしさから日曜深夜、午前3時からの再放送を観る視聴者が多いという。

(週刊FLASH 2017年5月2日号)

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