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吉本興業「岡本昭彦社長」の原点はダウンタウンのマネージャー

芸能・女子アナFLASH編集部
記事投稿日:2019.07.22 20:38 最終更新日:2019.07.22 20:38

吉本興業「岡本昭彦社長」の原点はダウンタウンのマネージャー

ダウンタウンのマネージャー時代の岡本氏

 

 7月22日、吉本興業・岡本昭彦社長が会見を開いた。7月20日におこなわれた雨上がり決死隊・宮迫博之と、ロンドンブーツ1号2号・田村亮が開いた会見を受けてのことだ。

 

 岡本社長は、騒動への謝罪を口にしたのち、「おとつい宮迫博之君と田村亮くんにああいう記者会見をさせてしまったことに関して、2人に対して深くお詫び申し上げます。非常につらい思いをさせてしまい、本当に申し訳なく思っております」と語った。

 

 

 

 宮迫らについては処分を撤回し、和解の方向で話を進めていきたいと話した。

 

 宮迫、田村が会見で、岡本社長から「(謝罪)会見するならやってもいいけど、全員クビにする」と言われたと発言したことで、吉本興業に対する世間の目は厳しいものになった。

 

 宮迫らの会見を受け、7月21日放送の『ワイドナショー』(フジテレビ系)は緊急生放送に変更された。

 

 番組内で、宮迫らの先輩である松本人志は、「いまの吉本を見ていて、テレビ局に対して、『大名商売をしているな』と思うことがある。もう一回、初心に返って。僕が東京に出てきたときは、赤坂の8畳くらいのワンルームマンションにホワイトボード1枚と黒電話2個から始まりましたから」と苦言を呈した。

 

 もともと大阪で全テレビ局を席巻していた吉本興業が、東京に連絡事務所を立ち上げたのは1980年。そこから吉本は、どのように大きくなってきたのか。当時を知る芸能関係者が、かつて本誌の取材にこう語っている。

 

「フジテレビの『THE・MANZAI』という番組から、爆発的なマンザイブームになって、吉本は紳助・竜介をはじめ、大量の芸人をテレビに送り込んでいきました。

 

 この漫才ブームの、吉本側の仕掛人の一人が『ミスター吉本』と呼ばれた木村政雄氏。その下で働いていたのが、入社3年目の大崎洋氏です」(芸能関係者)

 

 ブームはわずか2年で終わる。帰阪し、NSC(吉本総合芸能学院)担当になった大崎氏は、1982年、ネタ合わせをしているダウンタウンの2人を見たとき、体に電流が走ったという。

 

 1989年、大崎氏が再び東京に攻勢をかけるとき、相棒に選んだのがダウンタウンだった。1991年の『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)から、ダウンタウンも東京で快進撃を始める。

 

 まもなく、岡本昭彦氏がダウンタウンのマネージャーとなる。岡本氏は学生時代、アメリカンフットボール部に所属していたイケメンだが、当時は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)で、ブリーフ一丁で猫を抱く姿で登場し、松本や浜田からイジられていた。

 

 1993年、松本が『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)の制作発表をすっぽかしたときもマネージャーをしており、松本の欠席について「今のところは何とも」としどろもどろに対応していた過去もある。

 

 その後、ダウンタウン人気は爆発し、番組のDVDや書籍は売れに売れ、さらに浜田雅功の歌手活動などで、一時は芸能人長者番付の1位と2位を独占するほどだった。

 

 ダウンタウン以降、NSCの卒業生たちは次々に芸人デビューを果たす。そしていまや吉本の芸人は、どのチャンネルを回しても常に誰かが出ている状態だ。

 

 大崎氏は現在、会長となり、岡本氏は社長となった。


 ダウンタウンによって芸能界での地位を確立した吉本興業だが、いつしか「芸人ファースト」の意識が薄れていったのだろう。松本に「もう一回、初心に返って」と訴えられたのも、致し方ないかもしれない。

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