「いまの状況は、『武器も持たず素手で戦え』と言われているようなものです」
そう憤るのは、法医学の権威で、千葉大学法医学教室の岩瀬博太郎教授(53)だ。
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この教室では、警察などの依頼により年間約400体の遺体を解剖し、死因の究明に協力してきた。だが、いま現場では、新型コロナウイルスへの対策が、ほぼおこなえない状況なのだという。
「感染症対策として、まず必要なのは『陰圧室』です。細菌やウイルスが外部に流出しないよう、気圧を下げた部屋で解剖をおこなう必要があります。そして解剖台には、空気の壁を作ることで執刀者の安全を確保できる『エアカーテン』も必要です。
しかし、我々が解剖をおこなう千葉大学には、陰圧室はあるものの、解剖台は普通のものしかありません」
解剖には、常に未知の感染症と対峙するリスクがつきまとう。新型コロナウイルスが蔓延する今、そのリスクはさらに高まっているという。
「遺体は、咳やくしゃみをするわけではありません。しかし、頭蓋骨を電動のこぎりで切開する際には、粉や血液が飛び散りますし、肺を取り出す際に空気が漏れて、“くしゃみ” のように飛沫が飛ぶこともあります。
過去に、この教室で執刀者が、遺体から結核をうつされたこともあるんですよ」
今回も、コロナに感染する寸前のケースがあったという。
「先月、解剖前のCT検査で、死因が脳内出血だと思われた遺体を解剖しました。本来なら解剖の際は、細かな飛沫も通さない医療用の『N95マスク』を使用するのですが、いまはマスクの入手が困難なため、感染症の疑いが濃厚なケース以外では、サージカルマスクをつけて執刀しています。
このケースでも、コロナの疑いはないと安心して、サージカルマスクだけをつけて執刀しました。しかし、肺を開けてみると、コロナの可能性がある気管支の炎症を発見したんです。
1カ月たった今、私にコロナの症状が出ていないので安心していますが、ゾッとする体験です」
設備不足に加え、死因不明の遺体のほとんどが、保健所によるPCR検査を受けていないまま送られてくる、という問題もある。
「死後にコロナ陽性だとわかったケースは、全国で10件以上ありますが、これらは、病院に運ばれて死亡が確認されたため、PCR検査で陽性が判明したケースです。
しかし、自宅や路上で亡くなり、病院へ運ばれなかった方を解剖する際は、PCR検査が要請されることは少なく、保健所に要請しても、断わられてしまうことが多いのです」
千葉大学では現在、自衛策として、コロナ感染が疑われる遺体のPCR検査を、学内で独自に実施している。これまで8件の検査をおこない、すべて陰性だった。だが、設備不足と検査態勢の不備から、コロナ感染が疑われる遺体の司法解剖を拒否する大学もある。
「実際、コロナの陽性反応がすでに出ている遺体が、法医学者は承諾したのに、大学側が拒否した結果、解剖できなかった事例があると聞きます」
なぜ、これほどまでに、感染症対策がおろそかなのか。
「我々、法医学者は、文科省の管轄下です。一方、遺体を検視し解剖を依頼するのは警察庁で、感染症対策を考えるべきは、厚労省と各自治体。お互いが責任を押しつけ合う縦割り行政のなかで、諸外国の法医学研究所のような施設整備をいくら訴えても、どこも聞いてくれませんでした。
いまさら警察が、法医学会にコロナ遺体の解剖を検討するようお願いする文書を送っていますが、頼む相手が違うと思います。大学側が拒否するのも、仕方ないですよ。我々は特攻隊員じゃありません」
(週刊FLASH 2020年5月26日号)