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【ヤクザ日本史】江戸時代最高の「義俠」を持った火消し

社会・政治 投稿日:2016.08.22 13:00FLASH編集部

【ヤクザ日本史】江戸時代最高の「義俠」を持った火消し

明治時代初期の火消し

 

  八、九、三。

 

 花札でいう“ブタ”、つまり最悪のカス札から転じて「ヤクザ」の呼称が生まれたのは江戸中期のころだ。だが、ヤクザの起源をたどると、室町時代までさかのぼる。ヤクザ取材の第一人者、猪野健治氏が解説する。

 

「室町から戦国末期にかけて、髪を長く伸ばし、朱鞘(しゅざや)の大刀を持ち、異様な風体をした『カブキ者』が登場します。それをもって、ヤクザが歴史に登場したと考えられています」

 

 当時はチャンスがあれば上位に立てる下剋上時代。カブキ者らは徒党を組んで、下級大名のもとを転々とした。そんなカブキ者の格好を真似て大流行したのが、出雲阿国の「かぶき踊り」だ。

 

 江戸時代になり、町民文化が栄えはじめると、地域に根をおろした職業ヤクザが登場してくる。旗本奴(やっこ)や町奴だ。

 

「幕府が締めつけを強めると、それに反発した旗本らが町民いじめをするようになりました。それが旗本奴です。旗本は特権階級ですから、今でいう御用ヤクザのようなものです」

 

 その代表格が水野十郎左衛門。関ヶ原の戦いで武勲を立てた武将の孫、ボンボンだ。仲間で集会を開くときは、夏は障子を閉め切り、火鉢を囲んで熱いうどんをすすり、冬は障子を開け放って冷水を飲んだ。

 

 ミミズやトカゲを食べて虚勢を張ったと聞くと微笑ましいが、辻斬りや飲食代金の踏み倒しなど、やりたい放題の無法者たちだった。

 

「一方の町奴は、町の俠気ある浪人や町人たちでした。幕府の道路工事などを受注し、人足を大部屋に住まわせていた。人足は賭博や女遊びをしつつ、いざ工事となると腕を振るいました」

 

 町奴で有名だったのは幡随院(ばんずいいん)長兵衛の浅草組や、唐犬(とうけん)権兵衛の唐犬組。絶対的な主従関係など、その後の博徒や現代のヤクザに通じる親分子分のつな がりがこのころに生まれた。

 

 町奴は、町を我が物顔でのし歩く旗本奴としばしば衝突した。

 

 1657年、歌舞伎の観劇中、当時幡随院長兵衛の配下だった唐犬権兵衛と、水野十郎左衛門の手下がトラブルになった。水野は、その手打ちを名目に長兵衛を風呂に誘い、槍で刺し殺す。

 

 しかし水野はお咎めなし――。そんな狼藉のかぎりを尽くした旗本奴は、その30年後、業を煮やした幕府によって一掃された。

 

 一方の町奴は、その形を変えながらも、次の時代に継承されていくのだ。

 

 町奴の義俠精神は、火消し人足に受け継がれる。歴史に名を残す火消しの一人が、浅草寺の門番、新門辰五郎だ。

 

「950人もの血気盛んな若者を擁する『を組』を率い、博打や露天商からのカスリ(上前)も上げていました。さらに、自分の娘をときの将軍、徳川慶喜の愛妾にしたのです」

 

 慶喜が静岡に移るとき、辰五郎も同行し、地元の大親分、博徒の清水次郎長と兄弟分になった。親幕府派として活躍した次郎長は、明治維新後も天皇の側近、山岡鉄舟と親交を結ぶなど、 幕末・明治のキーマンでありつづけた。

 

 猪野氏が「近代ヤクザの元祖」と評しているのが吉田磯吉だ。

 

「石炭輸送の仕事を一手に引き受け、刃傷沙汰にも動じず、炭鉱や川筋の気性の荒い連中を束ねたのが磯吉です。一隻の船の船頭から出発し、17年間も衆院議員を務めました」

 

 その後、磯吉の子分が開港間もない神戸に移る。そのさらに子分にあたるのが、初代山口組組長の山口春吉なのだ。

 

(週刊FLASH 2015年11月10日、17日号)

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