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明智光秀を倒した秀吉、速すぎる「中国大返し」の秘密は船にあり

社会・政治 投稿日:2020.12.27 11:00FLASH編集部

明智光秀を倒した秀吉、速すぎる「中国大返し」の秘密は船にあり

■豊臣秀吉の銅像(写真/AC)

 

 大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)でスポットライトを浴びる戦国武将・明智光秀。「信長を討った武将」としてあまりにも有名だが、その人生は、信長の家臣である羽柴秀吉による歴史上屈指の大強行軍により、あっけなく幕を下ろす。

 

 

 光秀の襲撃による「本能寺の変」が発生したのは、1582年6月2日。当時、信長の命を受け、中国平定のために備中高松城を攻めていた秀吉は、返す刀で兵を京都・山崎に向かわせ、光秀を討つ。一連の大移動は「中国大返し」と呼ばれ、その驚異的な行軍速度から、実現可能性について議論が絶えない。

 

 今回は、歴史学者の渡邊大門氏、そして映画『アルキメデスの大戦』(2019)で戦艦大和などの製図監修を担当した船舶エンジニア・播田安弘氏の2人が、データをもとに「中国大返し」の謎に迫る。

 

■明智光秀の銅像(写真/AC)

 

渡邊「今回のテーマは『中国大返し』ですが、前段として『本能寺の変』にも触れさせてください。

 

 本能寺の変は、実行犯が光秀であることはハッキリしていますが、動機については諸説あります。

 

 光秀が信長を恨んでいたという『怨恨説』、信長を排除して天下を取ろうとした『野望説』、信長が当時の正親町天皇に譲位を迫り、天皇側が脅威を感じて光秀を差し向けたとする『朝廷黒幕説』などなど。

 

 現在、一歩リードしているのは『政策転換説』です。信長は、はじめ四国を牛耳る長宗我部元親とよい関係性を築いていたのですが、徐々に関係が悪化。2人の取次役をしていた光秀も立場が悪くなり、自分の今後が不安になって実行に及んだというものです。

 

 しかし、どれも決定打に欠けており、歴史研究家たちの間で『これだ!』とされる説はいまだ見当たらないのが現状です。

 

 ともあれ、本能寺の変は起こりました。知らせを聞いた秀吉は、驚異的なスピードで全軍を反転させ、京都に戻り光秀を討つ。これが、問題の『中国大返し』ですね」

 

 備中高松城から京都山崎まで、総移動距離は約220km。本能寺の変が起きたのは6月2日だが、秀吉は13日朝には京都・山崎で布陣している。この短期間で、大量の兵を連れて長い距離を移動することは可能なのか。

 

■山崎の合戦場(写真/AC)

 

播田「私は歴史研究家ではなく、あくまで長年、船の設計に携わってきたエンジニアです。それでも、数字から検証してみると、『中国大返し』は物量的にとうてい不可能ではないか、という結論に至るんです。

 

 今回、大返しを検証するために、秀吉軍の移動距離、兵士たちが消費するエネルギー量、必要な食料の量、装備、糞尿の量まで、あらゆる物量を算出しました。

 

 まずは移動行程の問題です。秀吉軍の出発日や行程に関しては、人によって意見が異なります。はっきりしているのは、京都山崎というゴール地点と、6月13日の朝には京都で布陣していた点。高松城の城主・清水宗治が講和のため切腹したのは6月4日午前だったことから、5日午後には秀吉軍が出発したと考えることにします。

 

 ただ、ここでの秀吉の兵力について、正確な数字はわかっていないんですよね」

 

渡邊「中国大返しに限らず、戦国時代にあちこちで起こった合戦は、正確な兵士の数はほぼわかっていないんです。ひとつの目安として、1万石につき動員可能な兵力数は約300~400人だったという見方があります。軍記物語の記述によると、中国大返しに関しては、大体2~3万人の兵を連れていたといわれます」

 

播田「6月5日から13日までの9日間、約220kmを2万人もの軍勢で行軍するわけですよ。

 

 当時は今ほど街道が整備されていませんし、梅雨の季節で9日間のうち5日間は雨です(※松嶋憲昭『気象で見直す日本史の合戦』洋泉社などによる)。その上、道も現代とは異なり、整備されておらず曲がりくねっていて、野営も続きますから、実質的な負担は10%増し。220kmの1.1倍で242kmとすれば、単純計算では1日平均約30kmを踏破したと考えるのが妥当でしょう。

 

 諸条件を組み込むと、兵士たちの1日の消費カロリーは約3700kcalだったと考えられます。自衛隊員が激しい訓練をした日は約3500kcalを消費するそうですから、かなり厳しい行軍だったことがわかります」

 

渡邊「やはり、問題は姫路城までの行程ですよね。備中高松城から姫路までの移動が、全行程のなかでも一番キツいものだったと考えられます」

 

播田「まさに、中国大返しで一番のボトルネックは、姫路に行くまでに越えなくてはいけない『船坂峠』です。ここが、山陽道で一番の難所なんですよね。

 

 船坂峠は岡山と兵庫の県境にあるんですが、高低差が激しく、かつて旅人が峠を越えるとき、船底のように低いところから登るように思えたことが名前の由来とされているくらいです。道も狭く、滑りやすい。重装備を身に着けた2万の行軍が進むには、非常に厳しい場所と考えられます」

 

渡邊「当時の道は2間から3間(※1間は約1.8m)と、相当な細さですからね。兵士たちが2列で進んだと仮定しても、各々3mずつ離れて歩けば30kmもの長い隊列になってしまう。現実には、3m以上離れることもあったでしょうから、30kmではすまなかったでしょう」

 

播田「そこまで隊列が長くなると、横から伏兵に襲撃された場合、ひとたまりもありません。情報伝達にも時間がかかってしまい、リスクが大きい。

 

 では、大返しを実現させるにはどうすればいいのか。奇策の一つとして、秀吉たちは『船』を使ったんじゃないかと思うんです。

 

 船坂峠より手前の備前片上という土地には、備前焼の積み出し港として栄えた西片上港があります。西片上から播磨の赤穂まで船で向かえば、船坂峠の難所をかわせるんです。

 

 戦国時代の軍船には大型の『安宅船』、中型の『関船』、小型の『小早』と3種類ありますが、当時の瀬戸内海では機動性の高い関船が活躍していましたから、秀吉も利用したとすれば関船でしょう。

 

 ただし、関船1隻に乗れるのは最大200人程度です。いくら水軍でも100隻もの船を用意するのは難しいでしょうから、秀吉と一部の側近、加えて兵士たちの武器を船に乗せ、先に向かったと考えるのはどうでしょうか。

 

 当時、備前を治めていた宇喜多氏は秀吉の配下で、水軍にも人脈がありました。加えて、備中高松城の水攻めでは、瀬戸内海にある直島城主・高原次利が水先案内人になったことから、功績として600石を与えられたそうです。秀吉軍に、彼らが力を貸したと考えるのは不自然ではないと思います」

 

渡邊「おもしろい想定ですね。当時は、瀬戸内海のあたりで水軍が往来していましたから、彼らの助力があるとすれば、可能性は考えられます。

 

 逆に言えば、素人だけで乗り込むのは危険な時代です。当時の船は、今ほどの技術もないため、どうしてもリスクの高い乗り物ではありましたから。

 

 戦国大名たちも、水軍だけは外注していたんです。房総半島の里見氏しかり、小田原の北条氏しかり。水軍たちを家臣にして、自分の組織に加えていくんです。

 

 播田先生がおっしゃったように、秀吉だけが一部の側近と先回りした点に関しては、私も同意見です。

 

 ただ私としては、秀吉を中心とした一部の側近たちが、馬に乗って先に行ったのではないかと考えています。馬は高価な乗り物で、気軽に買えるものではありませんから。先に姫路に到着し、情報収集しながら後から来る人たちを待ったということですね」

 

播田「大返しを2万人の軍勢という前提で考えると、あれだけの移動が成功するとは、正直信じがたい。私は秀吉の勝因は、側近ら少数を率いての、船による高速移動を最初に思いついたことだったと思っています。戦うための軍勢は、途中で畿内の大名たちから駆り集めればよいという発想です」

 

渡邊「たしかに、2万人が移動したというのは、なかなか考えにくいですね。大返しに関しては、秀吉自身がかなり誇張して伝えているところもあるんです。秀吉が他の大名に送った手紙には、軍勢が一昼夜で姫路まで行ったと書かれているんですが、これは他の史料から間違いだと判明しています。

 

 要は、秀吉としては、今後、従わせたい大名たちに対して牽制したいわけです。備中高松城で毛利軍が降伏したことに関しても、『殺そうかと思ったが、情けをかけて助けてやった』などと書かれている。そういった内容とともに、大返しの話が出てくるんです。

 

 歴史の史料に書いてあることはすべて正しいかというと、まったくそんなことはない。本人が嘘を書くこともあるわけですから。軍勢が定説より少なかったことも、可能性としては考えられますね」

 

播田「いずれにせよ、こうした行軍が本当に可能だったのか、地形、天候、運動量などにもとづいて検証した議論が、もっといろいろあってもいいと思うんです。

 

 私は技術の世界で生きてきた人間ですから古文書は読めませんが(笑)、歴史家が読み解いてくれた古文献の貴重なデータを科学的に検証することで、また少し違う視点から歴史を見ることができるのではないでしょうか」

 

●渡邊大門
1967年、神奈川県生まれ。「㈱歴史と文化研究所」代表として歴史にまつわる著書多数。専門は日本中世史。最新刊は『ここまでわかった! 本当の信長~知れば知るほどおもしろい50の謎』(光文社知恵の森文庫)

 

●播田安弘
1941年、徳島県生まれ。三井造船で大型船から特殊船までの設計に従事。映画『アルキメデスの大戦』で戦艦大和などの製図監修。最新巻は『日本史サイエンス~蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』 (講談社ブルーバックス)

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