「病状はよくなったり、悪くなったりを繰り返していました。しかし山口組が分裂しているなか、最後まで元気な姿をみんなに見せようとしていました」
10月23日に大阪市内の病院で死去した、六代目山口組顧問で章友会・石田章六会長(享年83)について、ヤクザ界に詳しいジャーナリストはこう話す。
25日に神戸市北区の葬儀場で執りおこなわれた通夜には、六代目側の直参が一堂に参列。30人近くの兵庫県警捜査員や警察車両が葬儀場周辺を取り囲み、厳戒態勢が敷かれた。
石田顧問は六代目山口組の最古参。三代目山口組の直参だった柳川組四天王の一人として、山口組の全国進攻に尽力した。
この柳川組は1958年当時、大阪での縄張り争いで、100人を相手にわずか8人が日本刀を手に殴り込みをかけたことで名を上げ、「殺しの軍団」として恐れられた。
都内在住の暴力団関係者はこう話す。
「ヤクザ界で柳川組といえば、それはすごい組織だった。山口組がこれほど大きくなったのは、柳川組のおかげ。我々も『柳川とは喧嘩をするな。みなやられるから』といわれてきた。だから、柳川組はヤクザにとって憧れの的でもあった。その四天王の一人とされた石田顧問を信奉する者は多かった」
最盛期の柳川組は約2800人の構成員を抱え、山口組の二次団体でありながら単独で広域暴力団に指定された。
しかし警察庁の標的にされ、三代目山口組時代に解散。柳川組は4つの組に分かれ、石田顧問は石田組(のちに章友会に改称)組長として山口組の直参となった。その後、六代目山口組までの4人の組長に仕えてきた。
「石田顧問は山口組のご意見番のような存在で、いるだけで重みがありました。しかし堅気には腰が低く、声をかけると気さくに応じてくれました。神戸山口組の井上邦雄組長も、分裂前は『おじさん』と言って慕っていました。分裂問題とは別の話として、焼香したいと思う神戸側の組員は多くいると思います」(前出のジャーナリスト)
一方で、石田顧問の死去は新たな抗争の火種になりかねない、と前出の暴力団関係者は危惧する。
「これまで、分裂しても石田顧問を敵視する組員は神戸側にはいなかった。しかし石田顧問が亡くなったことで、神戸側の信奉する人物が、六代目側にはいなくなったということだ。神戸側は六代目側に『配慮』する必要がなくなった」
3月の六代目山口組定例会に石田顧問は、司忍組長らを激励するため病身をおして出席したという。伝説の武闘派は、最後まで「現役」として男の生きざまを貫き通した。
(週刊FLASH 2016年11月15日号)