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小泉純一郎の言葉はなぜ国民を熱狂させたのか…山崎拓、武部勤がいまこそ証言

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.03.02 11:00 最終更新日:2021.03.02 11:00

小泉純一郎の言葉はなぜ国民を熱狂させたのか…山崎拓、武部勤がいまこそ証言

2003年、拉致問題関連活動で名を上げた安倍晋三氏を幹事長に任命する小泉総理(当時)

 

小泉純一郎 10の名言・至言

 

(1)「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力だ」(2001年5月9日、衆院代表質問答弁)

 

(2)「リーダーは孤独だ。それでも、一人でやらなければいけない時がある」(2005年4月1日、記者団に郵政民営化を問われ)

 

(3)「山を越え谷を越え、一度は谷底に突き落とされたけど、国民が引き上げてくれた」(2005年10月14日、郵政民営化法成立時)

 

(4)「昨日の敵は今日の友。今日の友は明日の敵。これが当たり前の世界だ。これをわきまえながら友情は育むことが大事だ」(2005年10月19日、自民党若手議員研修会で)

 

(5)「闘って敗れた負け組はほめられるべきで、むしろ闘おうとしない人が問題」(2006年2月1日、自民党若手議員研修会で)

 

(6)「私も引き際、散り際を大事にして、任期中は首相の職責を精いっぱい頑張っていきたい」(2006年4月15日、「桜を見る会」で)

 

(7)「国会議員になる夢を果たせず、去っていった人が多いことをかみ締めて行動してほしい」(2006年11月7日、新人議員研修会で)

 

(8)「政治家は首相だって使い捨て。一回一回の選挙ごとに使い捨てにされることを覚悟しないといけない。甘えてはだめだ」(2006年11月7日、新人議員研修会で)

 

(9)「土下座するようなことまで受け入れたのだから、復党を認めてもいいのではないか」(2006年11月29日、郵政民営化法案に反対して離党した議員について聞かれ)

 

(10)「支持率は気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」(2007年2月20日、国会内で中川秀直幹事長らに)

 

■小泉純一郎 略年表

 

●昭和17年(1942年) 1月8日、神奈川県横須賀市に生まれる
●昭和35年(1960年) 神奈川県立横須賀高等学校卒業
●昭和42年(1967年) 慶應義塾大学経済学部卒業。ロンドン大学留学
●昭和45年(1970年) 衆院議員の福田赳夫氏の秘書に
●昭和47年(1972年) 衆院議員初当選(30歳)。以来、12期連続当選
●昭和54年(1979年) 大蔵政務次官
●昭和63年(1988年) 厚生大臣(竹下内閣)。翌年に宇野内閣で再任
●平成3年(1991年) 自由民主党筆頭副幹事長
●平成4年(1992年) 郵政大臣(宮澤内閣)
●平成8年(1996年) 厚生大臣(第二次橋本内閣)。翌年に第二次橋本改造内閣で再任
●平成13年(2001年)
4月、平成7年、平成10年に続いて、自由民主党総裁選に3回めの出馬。田中眞紀子衆院議員の協力を得て「小泉旋風」。第87代内閣総理大臣。党人事で山崎拓幹事長。
7月、参院選で大勝。
9月、米同時多発テロ発生。10月にテロ対策特別措置法を成立させる
●平成14年(2002年)
1月、国会の混乱などを受け、田中眞紀子外相を更迭。
9月、電撃的訪朝で日朝首脳会談。北朝鮮が日本人拉致を認める。
10月、拉致被害者5人が帰国
●平成15年(2003年)
3月、アメリカがイラクへ侵攻。6月に有事関連三法、7月にイラク特措法を成立させる。
9月、党総裁選で再選。第88代内閣総理大臣。党人事・内閣改造で安倍晋三幹事長。
11月、総選挙。民主党躍進
●平成16年(2004年)
5月、再訪朝。拉致被害者家族が帰国へ。
7月、参院選。民主党の獲得議席を下回り自民党敗北。安倍幹事長から武部勤幹事長へ
●平成17年(2005年)
8月、郵政解散。亀井静香氏らが自民党離党。
9月、総選挙。「小泉劇場」で自民党大勝。第89代内閣総理大臣。
●平成18年(2006年) 自民党総裁任期満了。総辞職して内閣総理大臣を退任
●平成20年(2008年) 政界引退

 

(週刊FLASH 2021年3月2日号)

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