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コロナ禍を支える看護師たち…その育成は日本赤十字社から始まった/5月11日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.05.11 06:00 最終更新日:2021.05.11 06:00

コロナ禍を支える看護師たち…その育成は日本赤十字社から始まった/5月11日の話

日本赤十字社病院(1891年)

 

 東京・広尾にある日本赤十字社医療センター。この病院が完成したのは、1891年(明治24年)のことだ。同年5月11日、当時の英照皇太后(明治天皇の嫡母)が500円(現在の280万円相当)を下賜(かし)されている。

 

 皇室と日本赤十字社の関係は深い。英照皇太后に続き、昭憲皇太后(明治天皇の皇后る)も支援を続けていく。

 

 

 日本赤十字社の歴史は、およそ150年前、西南戦争(1877年)までさかのぼる。負傷者を救護するため、当時の元老院議員・佐野常民らが設立した『博愛社』が始まりだ。1886年に日本がジュネーヴ条約に調印したことをきっかけに、名称が日本赤十字社へ改称された。

 

 実は、日本の看護師の養成には、日本赤十字社が大きな貢献を果たしてきた。当初から広尾の病院には看護学校が併設されており、現在も日本赤十字看護大学では毎年200名近い卒業生を輩出している。

 

 看護学研究の第一人者で、日本赤十字看護大学の名誉教授でもある川嶋みどりさんがこう話す。

 

「日本赤十字看護大学は、日本赤十字社病院のなかに作られた『看護婦養成所』が前身です。これは、戦争で傷ついた兵隊さんを救護する “戦時救護看護婦” を育てる目的で作られました。

 

 1891年に濃尾地震という大きな地震が起こり、『看護婦養成所』から何人もの学生が被災地で救護に当たりました。戦時の看護婦を養成していたものの、いちばん最初の活動は災害救護だったのです。

 

 その後、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争と、50年ものあいだ、救護看護婦たちは海外に出向き、ずっと救護を続けました」

 

「看護婦養成所」はその後、「日本赤十字女子専門学校」となる。川嶋さんも、そこで看護学を学んだ。

 

「“軍国主義的” な文化が残る、とても厳しい上下関係でした。寮生活では、朝5時半に起きて、そのあとご飯を食べて、キリスト教の礼拝をおこないます。そして、賛美歌を歌いながら病棟へ行き、洗面や部屋の掃除など、患者さんのお世話をします。

 

 2年生になると、ひとりで『夜勤実習』をしました。40人くらいの患者さんがいる病棟を、ずっとひとりで担当するんです。大変なものでした。そういう厳しい環境を理由に、半分くらいの同期生がやめていきました」

 

 厳しい環境で豊富な知識と実力を身につけた川嶋さんは、卒業後、日本赤十字社中央病院に勤務し、看護のエキスパートとして活躍を続けることになる。

 

 そんな川嶋さんが、現在、コロナ禍で苦労を重ねる看護師たちの思いを代弁する。

 

「大きい病院の場合、患者さん7名に対して看護師さん1人がつく状態が標準となります。しかし、コロナの場合は、患者さん1人に対し、看護師1.5人から2人ほどで担当する必要があるのです。

 

 それで、看護師の数がものすごく足りなくなってしまう。緊張と不安が極限に達した状態で、とても大変だと聞きます。この苦労は、実際の現場で働く看護師にしかわからないことでしょう。

 

 そもそも、コロナ禍になる前から看護師の数は足りていませんでした。それが、コロナで余計足りなくなっている。ですから、行政には、とにかく看護師の数を保つ努力をしてほしい。

 

 これ以上、看護師を減らさないためにも、労働条件を見直して人数を確保しないといけないんです」

 

 先の見えないコロナ・パンデミック。その最前線では、いまも勇敢な看護師たちが戦っている。

 

写真提供・博物館 明治村

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